をした宇平は留飲疝通《りゅういんせんつう》に悩み、文吉も下痢して、食事が進まぬので、湯町で五十日の間保養した。大分体が好くなったと云って、中大洲《なかおおす》を二日捜して、八幡浜《やはたはま》に出ると、病後を押して歩いた宇平が、力抜けがして煩《わずら》った。そこで五日間滞留して、ようよう九州行の舟に乗ることが出来た。四国の旅は空《むな》しく過ぎたのである。
舟は豊後国佐賀関《ぶんごのくにさがのせき》に着いた。鶴崎《つるさき》を経て、肥後国《ひごのくに》に入り、阿蘇山《あそさん》の阿蘇神宮、熊本の清正公《せいしょうこう》へ祈願に参って、熊本と高橋とを三日ずつ捜して、舟で肥前国《ひぜんのくに》島原に渡った。そこに二日いて、長崎へ出た。長崎で三日目に、敵らしい僧を島原で見たと云う話を聞いて、引き返して又島原を五日尋ねた。それから熊本を更に三日、宇土を二日、八代《やつしろ》を一日、南工宿《なんくじゅく》を二日尋ねて、再び舟で肥前国|温泉嶽《おんせんだけ》の下の港へ渡った。すると長崎から来た人の話に、敵らしい僧の長崎にいることを聞いた。長崎|上筑後町《かみちくごまち》の一向宗《いっこうしゅう》の寺に、勧善寺と云うのがある。そこへ二十歳前後の若い僧が来て、棒を指南していると云うのである。一行は又長崎行の舟に乗った。
長崎に着いたのは十一月八日の朝である。舟引地町《ふなひきじまち》の紙屋と云う家に泊って、町年寄《まちどしより》福田某に尋人《たずねにん》の事を頼んだ。ここで聞けば、勧善寺の客僧はいよいよ敵らしく思われる。それは紀州|産《うまれ》のもので、何か人目を憚《はばか》るわけがあると云って、門外不出で暮していると云うのである。親切な町年寄は、若し取り逃がしてはならぬと云って、盗賊方二|人《にん》を同行させることにした。町で剣術師範をしている小川某と云うものも、町年寄の話を聞いて、是非その場に立ち会って、場合に依っては助太刀がしたいと申し込んだ。
九郎右衛門、宇平の二人は、大村家の侍で棒の修行を懇望《こんもう》するものだと云って、勧善寺に弟子入の事を言い入れた。客僧は承引して、あすの巳《み》の刻に面会しようと云った。二人は喜び勇んで、文吉を連れて寺へ往く。小川と盗賊方の二人とは跡に続く。さて文吉に合図を教えて客僧に面会して見ると、似も寄らぬ人であった。ようようその場を取
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