して、敵討を許した。「早々本意を達し可立帰《たちかへるべし》、若《もし》又敵人|死候《しにさふら》はば、慥《たしか》なる証拠を以可申立《もってまをしたつべし》」と云う沙汰である。三人には手当が出る。留守へは扶持《ふち》が下がる。りよはお許は出ても、敵を捜しには旅立たぬことになって見れば、これで未亡人とりよとの、江戸での居所《いどころ》さえ極《き》めて置けば、九郎右衛門、宇平の二人は出立することが出来るのである。
 りよは小笠原邸の原田夫婦が一先《ひとまず》引き取ることになった。病身な未亡人は願済《ねがいずみ》の上で、里方桜井須磨右衛門の家で保養することになった。
 さていよいよ九郎右衛門、宇平の二人が門出《かどで》をしようとしたが、二人共敵の顔を識らない。人相書だけをたよりにするのは、いかにも心細いので、口入宿の富士屋や、請宿《うけやど》の若狭屋へ往って、色々問い質《ただ》したが、これと云う事実も聞き出されない。それに容貌が分からぬばかりでなく、生国も紀州だとは云っているが、確《しか》としたことは分からぬらしい。只酒井家に奉公する前には、上州高崎にいたことがあると云うだけである。
 その時、山本平作方へ突然尋ねて来た男がある。この男は近江国《おうみのくに》浅井郡の産《うまれ》で、少《わか》い時に江戸に出て、諸家に仲間《ちゅうげん》奉公をしているうちに、丁度亀蔵と一しょに酒井家の表小使をして、三右衛門には世話になったこともあるので、若しお役に立つようなら、幸《さいわい》今は酒井家から暇《いとま》を取っているから、敵の見識人《みしりにん》として附いて行っても好《よ》いと云うのである。名は文吉と云って、四十二歳になる。体は丈夫で、渡者《わたりもの》の仲間には珍らしい、実直なものだと云うことが、一目見て分かった。
 九郎右衛門が会って話をして見て、すぐに宇平の家来に召し抱《かか》えることにした。

 九郎右衛門、宇平、文吉の三人は二十九日に菩提所遍立寺から出立することに極めて、前日に浜町の山本平作方を引き払って、寺へ往った。そこへは病気のまだ好くならぬ未亡人の外、りよを始、親戚一同が集まって来て、先ず墓参をして、それから離別の盃《さかずき》を酌《く》み交《かわ》した。住持はその席へ蕎麦《そば》を出して、「これは手討のらん切《ぎり》でございます」と、茶番めいた口上を言った。親
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