そく正装に着更《きか》えて司令部へ出た。その頃は申告の為方《しかた》なんぞは極《き》まっていなかったが、廉《かど》あって上官に謁《えっ》する時というので、着任の挨拶は正装ですることになっていた。
 翌日も雨が降っている。鍛冶《かじ》町に借家があるというのを見に行く。砂地であるのに、道普請に石灰|屑《くず》を使うので、薄墨色の水が町を流れている。
 借家は町の南側になっている。生垣で囲んだ、相応な屋敷である。庭には石灰屑を敷かないので、綺麗《きれい》な砂が降るだけの雨を皆吸い込んで、濡れたとも見えずにいる。真中に大きな百日紅《さるすべり》の木がある。垣の方に寄って夾竹桃《きょうちくとう》が五六本立っている。
 車から降りるのを見ていたと見えて、家主が出て来て案内をする。渋紙《しぶがみ》色の顔をした、萎《しな》びた爺《じい》さんである。
 石田は防水布の雨覆《あまおおい》を脱いで、門口を這入《はい》って、脱いだ雨覆を裏返して巻いて縁端《えんばな》に置こうとすると、爺さんが手に取った。石田は縁を濡らさない用心かと思いながら、爺さんの顔を見た。爺さんは言訣《いいわけ》のように、この辺《へん》は往来から見える処《ところ》に物を置くのは危険だということを話した。石田が長靴を脱ぐと、爺さんは長靴も一しょに持って先に立った。
 石田は爺さんに案内せられて家を見た。この土地の家は大小の違《ちがい》があるばかりで、どの家も皆同じ平面図に依《よ》って建てたように出来ている。門口を這入って左側が外壁《そとかべ》で、家は右の方へ長方形に延びている。その長方形が表側と裏側とに分れていて、裏側が勝手になっているのである。
 東京から来た石田の目には、先《ま》ず柱が鉄丹《べんがら》か何かで、代赭《たいしゃ》のような色に塗ってあるのが異様に感ぜられた。しかし不快だとも思わない。唯この家なんぞは建ててから余り年数を経たものではないらしいのに、何となく古い、時代のある家のように思われる。それでこんな家に住んでいたら、気が落ち付くだろうというような心持がした。
 表側は、玄関から次の間《ま》を経て、右に突き当たる西の詰《つめ》が一番好い座敷で、床の間が附いている。爺さんは「一寸《ちょっと》|御免なさい」と云って、勝手へ往《い》ったが、外套《がいとう》と靴とを置いて、座布団と煙草盆《たばこぼん》とを持って出
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