な事を言ふなら。」
五月の朝の日が晴やかに、明るく部屋に差し込んで来た。その時フリツツは「どうもアンナだつて真面目に考へて、あんな手紙を書いたのではあるまい」と思つた。それと同時に、少し気が落ち着いて来て、この儘も少し寝てゐたいと思つた。併し又一転して考へて見ると、やはり停車場《ステエシヨン》へ行つた方が好いやうに思はれる。行つて、あいつの来ないのを見て遣らうと思ふのである。時間が来ても娘が来なかつたら、どんなにか嬉しからうと思つて見るのである。
まだ薄ら寒い朝の町を、疲れて膝のがく/\するやうな足を引き摩《ず》つて、停車場へ出掛けた。
停車場の広場は空虚である。なんだか気味の悪いやうな、まだ希望の繋がれてゐるやうな心持をしながら、フリツツはあたりを見廻した。
茶色のジヤケツはどこにも見えない。
フリツツはほつと息をした。それから廊下や待合室を駆け廻つて捜した。旅客が寝ぼけた顔をして、何事にも無頓着な様子で歩き廻つてゐる。赤帽が柱の周囲《まはり》に、不性らしく立つてゐる。埃だらけのベンチの上に、包みや籠を置いて、それに倚り掛つて、不機嫌らしい顔をしてゐる下等社会の男女もある。
茶色のジヤケツはどこにも見えない。
駅夫がどこかの待合室を覗いて、なんとか地名を呼んだ。そしてがらん/\と、けたゝましく鐸《ベル》を振つた。それから同じ地名を、近い所で呼んだ。それから又プラツトフオオムへ出て、もう一度同じ地名を呼んだ。厭な鐸の音が反復して聞える。
フリツツは踵《くびす》を旋《めぐ》らして、ポツケツトに両手を入れた儘、ぶら/\広場へ戻つて来た。心中非常に満足して、凱歌を奏するやうに、「茶色のジヤケツはどこにも見えない」と思つて見た。「来ないには極まつてゐる。己には前から分かつてゐた。」
なんだかひどく気楽な心持になつて、或る柱の背後《うしろ》へ歩み寄つた。一体午前六時の汽車といふのはどこへ行くのか見ようと思つたのである。そして器械的に種々な駅の名を読んで、自分がたつた今|転《ころ》ばうとした梯子段を、可笑しがつて見てゐる人のやうな顔をしてゐた。
その時床の石畳みの上を急ぎ足で来る靴の音がした。
フリツツがふいとその方角を見ると、茶色のジヤケツを着た、小さい姿が、プラツトフオオムの戸の向うへ隠れるのが見えた。帽子の上にゆらめいてゐる薔薇の花も見えたのである。
フリツツはぢつとそれを見送つてゐた。その時少年の心に、この人生をおもちやにしようとしてゐる、色の蒼い弱々しい小娘に対する恐怖が、圧迫するやうに生じて来た。そして娘が跡へ引き返して来て、自分を見附けて、知らぬ世界へ引き摩つて行くのだらうとでも思つたらしく、フリツツは慌てゝ停車場を駆け出して、跡をも見ずに町の方へ帰つて行つた。
底本:「鴎外選集 第14巻」岩波書店
1979(昭和54)年12月19日第1刷発行
初出:「駆落」1912(明治45)年1月1日「女子文壇」八ノ一
原題:Die Flucht.
原作者:Rainer Maria Rilke, 1875−1926
翻訳原本:R. M. Rilke: Am Leben hin.(Novellen und Skizzen.)Stuttgart, Verlag von Adolf Bonz. 1898.
入力:tatsuki
校正:小林繁雄
2000年5月5日公開
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