てみた。
 停車場へ出掛けた。首尾よく不喫烟室に乗り込むまではよかったが、おれはそこで捕縛せられた。
 おれは五時間の予審を受けた。何もかも白状した。しかし裁判官達には、おれがなぜそんな事をしたか分からない。
「襟だって価のある物品ではありませんか」と、裁判官も検事も云うのである。
「あいつはわたくしを滅亡させたのです。わたくしの生涯を破壊したのです。あいつが最初電車から飛び下りて、わたくしを追いかけて、あの包みを渡しさえしなかったら。」
「しかし誰でもあの男の場合に出合ったら、あの男と同じ行為に出でたでしょう。どうも外に為様《しよう》はないじゃありませんか。一体被告の申立ては法廷を嘲弄しているものと認めます」と、裁判官達は云った。
 おれは死刑を宣告せられた。それから法廷を侮辱した科《とが》によって、同時に罰金二十マルクに処せられた。
「被告の所有者たる襟は没収する限りでないから、一応被告に下げ渡します」と、裁判長が云った。「あの差押えた品を渡せ」と云うや否や、押丁《おうてい》はおれに例の紙包みを持って来て渡した。
 その時おれは気を失った。それから醒覚したのは、監獄の部屋の中であった。夜である。おれの傍には卓があって、その上に襟の包みが載っている。
 明日はおれは処刑を受ける。おれはヨオロッパのために死ぬる。ヨオロッパの平和のために死ぬる。国家の行政のために死ぬる。文化のために死ぬる。
 襟は遺言をもって検事に贈る。どうとも勝手にするがいい。
 故郷を離れて死ぬるのはせつない。涙が翻《こぼ》れて、もうあとは書けない。さらばよ。我がロシア。

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附言。本文中二箇所の字句を改刪《かいさん》してある。これは諷刺の意を誤解せられては差支えるので、故意に原文に従わなかったのである。誤訳ではない。
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底本:「諸国物語(上)」ちくま文庫、筑摩書房
   1991(平成3)年12月4日第1刷発行
底本の親本:「鴎外全集」岩波書店
   1971(昭和46)年11月〜1975(昭和50)年6月
入力:土屋隆
校正:noriko saito
2007年12月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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