籠《おんたてこも》り遊ばされおり候《そろ》ところ、神君|上杉景勝《うえすぎかげかつ》を討たせ給うにより、三斎公も随従遊ばされ、跡《あと》には泰勝院殿幽斎藤孝《たいしょういんでんゆうさいふじたか》公御留守遊ばされ候。景一は京都赤松殿|邸《やしき》にありし時、烏丸光広《からすまるみつひろ》卿と相識《そうしき》に相成りおり候《そろ》。これは光広卿が幽斎公和歌の御弟子にて、嫡子《ちゃくし》光賢《みつかた》卿に松向寺殿の御息女|万姫君《まんひめぎみ》を妻《めあわ》せ居られ候《そろ》故《ゆえ》に候。さて景一光広卿を介《かい》して御当家御父子とも御心安く相成りおり候。田辺攻《たなべぜめ》の時、関東に御出《おんいで》遊ばされ候三斎公は、景一が外戚《がいせき》の従弟たる森三右衛門を使に田辺へ差立てられ候。森は田辺に着《ちゃく》いたし、景一に面会して御旨《おんむね》を伝え、景一はまた赤松家の物頭《ものがしら》井門亀右衛門《いかどかめえもん》と謀《はか》り、田辺城の妙庵丸櫓《みょうあんまるやぐら》へ矢文《やぶみ》を射掛け候。翌朝景一は森を斥候の中に交ぜて陣所を出だし遣《や》り候。森は首尾よく城内に入り、幽斎公の御親書を得て、翌晩関東へ出立いたし候。この歳《とし》赤松家滅亡せられ候により、景一は森の案内にて豊前国《ぶぜんのくに》へ参り、慶長六年御当家に召抱《めしかか》えられ候《そろ》。元和《げんな》五年御当代|光尚《みつひさ》公御誕生遊ばされ、御幼名|六丸君《ろくまるぎみ》と申候。景一は六丸君|御附《おつき》と相成り候。元和《げんな》七年三斎公御|致仕《ちし》遊ばされ候時、景一も剃髪《ていはつ》いたし、宗也《そうや》と名告《なの》り候。寛永《かんえい》九年十二月九日御先代|妙解院殿忠利公《みょうげいんでんただとしこう》肥後《ひご》へ御入国遊ばされ候時、景一も御供《おんとも》いたし候。十八年三月十七日に妙解院殿卒去遊ばされ、次いで九月二日景一も病死いたし候。享年《きょうねん》八十四歳に候。
 兄九郎兵衛|一友《かずとも》は景一が嫡子にして、父につきて豊前《ぶぜん》へ参り、慶長十七年三斎公に召しいだされ、御次勤《おんつぎづとめ》仰《おおせ》つけられ、後病気により外様勤《とざまづとめ》と相成り候。妙解院殿の御代《おんだい》に至り、寛永十四年冬|島原攻《しまばらぜめ》の御供いたし、翌十五年二月二十
前へ 次へ
全11ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング