ちる。その落ちるのが余り密《こまか》なので、遠い所の街灯の火が蔽《おお》われて見えない。
爺いさんが背後《うしろ》を振り返った時には、一本腕はもう晩食をしまっていた。一本腕はナイフと瓶とを隠しにしまった。そしてやっと人づきあいのいい人間になった。「なんと云う天気だい。たまらないなあ。」
爺いさんは黙って少し離れた所に腰を掛けた。
一本腕が語り続けた。「糞《くそ》。冬になりゃあ、こんな天気になるのは知れているのだ。出掛けさえしなけりゃあいいのだ。おれの靴は水が染みて海綿のようになってけつかる。」こう言い掛けて相手を見た。
爺いさんは膝の上に手を組んで、その上に頭を低く垂れている。
一本腕はさらに語り続けた。「いやはや。まるで貧乏神そっくりと云う風をしているなあ。きょうは貰いがなかったのかい。おれだっておめえと同じ事だ。まずい商売だよ。競争者が多過ぎるのだ。お得意の方で、もう追っ附かなくなっている。おれなんぞはいろんな事をやってみた。恥かしくて人に手を出すことの出来ない奴の真似をして、上等の料理屋や旨《うま》い物店の硝子《ガラス》窓の外に立っていたこともある。駄目だ。中にいる奴は
前へ
次へ
全9ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング