から土を掛けて置いたのである。
玄機は「生ける秘密」のために、数年前から客を謝していた。然るに今は「死せる秘密」のために懼《おそれ》を懐《いだ》いて、もし客を謝したら、緑翹の踪跡《そうせき》を尋ねるものが、観内に目を著《つ》けはすまいかと思った。そこで切《せつ》に会見を求めるものがあると、強いて拒まぬことにした。
初夏の頃に、ある日二三人の客があった。その中の一人が涼を求めて観の背後に出ると、土を取った跡らしい穴の底に新しい土が填《う》まっていて、その上に緑色に光る蠅《はえ》が群がり集まっていた。その人はただなんとなく訝《いぶか》しく思って、深い思慮をも費さずに、これを自己の従者に語った。従者はまたこれを兄に語った。兄は府の衙卒《がそつ》を勤めているものである。この卒は数年前に、陳が払暁に咸宜観から出るのを認めたことがある。そこで奇貨|措《お》くべしとなして、玄機を脅《おびやか》して金を獲《え》ようとしたが、玄機は笑って顧みなかった。卒はそれから玄機を怨んでいた。今弟の語《ことば》を聞いて、小婢《しょうひ》の失踪したのと、土穴に腥羶《せいせん》の気があるのとの間に、何等かの関係があるように思った。そして同班の卒数人と共に、※[#「金+插のつくり」、第3水準1−93−28]《すき》を持って咸宜観に突入して、穴の底を掘った。緑翹の屍は一尺に足らぬ土の下に埋まっていたのである。
京兆《けいちょう》の尹《いん》温璋《おんしょう》は衙卒の訴に本《もと》づいて魚玄機を逮捕させた。玄機は毫《ごう》も弁疏《べんそ》することなくして罪に服した。楽人陳某は鞠問《きくもん》を受けたが、情を知らざるものとして釈《ゆる》された。
李億を始《はじめ》として、かつて玄機を識っていた朝野の人士は、皆その才を惜んで救おうとした。ただ温岐一人は方城の吏になって、遠く京師《けいし》を離れていたので、玄機がために力を致すことが出来なかった。
京兆の尹は、事が余りにあらわになったので、法を枉《ま》げることが出来なくなった。立秋の頃に至って、遂《つい》に懿宗《いそう》に上奏して、玄機を斬《ざん》に処した。
――――――――――――――――――――
玄機の刑せられたのを哀むものは多かったが、最も深く心を傷めたものは、方城にいる温岐であった。
玄機が刑せられる二年前に、温は流離して揚州《ようしゅう》に往っていた。揚州は大中十三年に宰相を罷《や》めた令狐綯が刺史《しし》になっている地である。温は綯が自己を知っていながら用いなかったのを怨んで名刺をも出さずにいるうちに、ある夜|妓院《ぎいん》に酔って虞候《ぐこう》に撃たれ、面《おもて》に創《きず》を負い前歯を折られたので、怒ってこれを訴えた。綯が温と虞候とを対決させると、虞候は盛んに温の※[#「さんずい+于」、第3水準1−86−49]行《おこう》を陳述して、自己は無罪と判決せられた。事は京師に聞えた。温は自ら長安に入って、要路に上書して分疏《ぶんそ》した。この時徐商と楊収《ようしゅう》とが宰相に列していて、徐は温を庇護したが楊が聴かずに、温を方城に遣って吏務に服せしめたのである。その制辞《せいじ》は「孔門以徳行為先《こうもんはとくかうをもつてさきとなし》、文章為末《ぶんしやうをすゑとなす》、爾既徳行無取《なんぢすでにとくかうのとるなし》、文章何以称焉《ぶんしやうなんぞもつてしようせられんや》、徒負不羈之才《いたづらにふきのさいをおふ》、罕有適時之用《てきじのようあることまれなり》」と云うのであった。温は後に隋県《ずいけん》に遷《うつ》されて死んだ。子の憲も弟の庭皓《ていこう》も、咸通中に官に擢《ぬきん》でられたが、庭皓は※[#「广+龍」、第3水準1−94−86]※[#「員+力」、第3水準1−14−71]《ほうくん》の乱に、徐州で殺された。玄機が斬られてから三月の後の事である。
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参照
其一 魚玄機
三水小牘 南部新書
太平広記 北夢瑣言《ほくむさげん》
続談助 唐才子伝
唐詩紀事 全唐詩(姓名下小伝)
全唐詩話 唐女郎魚玄機詩
其二 温飛卿
旧唐書 漁隠叢話《ぎょいんそうわ》
新唐書 北夢瑣言
全唐詩話 桐薪《どうしん》
唐詩紀事 玉泉子
六一詩話 南部新書
滄浪《そうろう》詩話 握蘭集《あくらんしゆう》
彦周《げんしゆう》詩話 金筌集《きんせんしゆう》
三山老人語録 漢南真稿
雪浪斎《せつろうさい》日記 温飛卿詩集
[#地付き](大正四年四月)
底本:「森鴎外全集5」ちくま文庫、
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