牛鍋
森鴎外

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)鍋《なべ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)三|切《きれ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「月+咢」、第3水準1−90−51]
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 鍋《なべ》はぐつぐつ煮える。
 牛肉の紅《くれない》は男のすばしこい箸《はし》で反《かえ》される。白くなった方が上になる。
 斜に薄く切られた、ざくと云う名の葱《ねぎ》は、白い処が段々に黄いろくなって、褐色の汁の中へ沈む。
 箸のすばしこい男は、三十前後であろう。晴着らしい印半纏《しるしばんてん》を着ている。傍《そば》に折鞄《おりかばん》が置いてある。
 酒を飲んでは肉を反す。肉を反しては酒を飲む。
 酒を注いで遣《や》る女がある。
 男と同年位であろう。黒繻子《くろじゅす》の半衿《はんえり》の掛かった、縞《しま》の綿入に、余所行《よそゆき》の前掛をしている。
 女の目は断えず男の顔に注がれている。永遠に渇しているような目である。
 目の渇《かわき》は口の渇を忘れさせる。女は酒を飲まないのである。
 箸のすばしこい男は、二三度反した肉の一切れを口に入れた。
 丈夫な白い歯で旨《うま》そうに噬《か》んだ。
 永遠に渇している目は動く※[#「月+咢」、第3水準1−90−51]《あご》に注がれている。
 しかしこの※[#「月+咢」、第3水準1−90−51]に注がれているのは、この二つの目ばかりではない。目が今二つある。
 今二つの目の主《ぬし》は七つか八つ位の娘である。無理に上げたようなお煙草《たばこぼん》盆に、小さい花簪《はなかんざし》を挿している。
 白い手拭《てぬぐい》を畳んで膝《ひざ》の上に置いて、割箸を割って、手に持って待っているのである。
 男が肉を三|切《きれ》四切食った頃に、娘が箸を持った手を伸べて、一切れの肉を挟もうとした。男に遠慮がないのではない。そんならと云って男を憚《はばか》るとも見えない。
「待ちねえ。そりゃあまだ煮えていねえ。」
 娘はおとなしく箸を持った手を引っ込めて、待っている。
 永遠に渇している目には、娘の箸の空《むな》しく進んで空しく退いたのを見る程の余裕がない。
 暫《しばら》くすると、
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