繧、》だのを受けてはいない。なるほど無縁坂と云うものが新に出来たには相違ない。しかし世間の男のように、自分はその為めに、女房に冷澹《れいたん》になったとか、苛酷になったとか云うことはない。寧《むし》ろこれまでよりは親切に、寛大に取り扱っている。戸口は依然として開け放されているではないかと思うのである。
 無論末造のこう云う考には、身勝手が交っている。なぜと云うに、物質的に女房に為向ける事がこれまでと変らぬにしても、又自分が女房に対する詞や態度が変らぬにしても、お玉と云うものがいる今を、いなかった昔と同じように思えと云うのは、無理な要求である。お常がために目の内の刺《とげ》になっているお玉ではないか。それを抜いて安心させて遣ろうと云う意志が自分には無いではないか。固《もと》よりお常は物事に筋道を立てて考えるような女ではないから、そんな事をはっきり意識してはいぬが、末造の謂《い》う戸口が依然として開け放されてはいない。お常が現在の安心や未来の希望を覗《のぞ》く戸口には、重くろしい、黒い影が落ちているのである。
 或る日末造は喧嘩《けんか》をして、内をひょいと飛び出した。時刻は午前十時過ぎでもあっただろう。直ぐに無縁坂へ往こうかとも思ったが、生憎女中が小さい子を連れて、七軒町の通にいたので、わざと切通《きりどおし》の方へ抜けて、どこへ往くと云う気もなしに、天神町から五軒町へと、忙がしそうに歩いて行った。折々「糞《くそ》」「畜生」などと云う、いかがわしい単語を口の内でつぶやいているのである。昌平橋に掛かる時、向うから芸者が来た。どこかお玉に似ていると思って、傍《わき》を摩れ違うのを好く見れば、顔は雀斑《そばかす》だらけであった。矢《や》っ張《ぱり》お玉の方が別品だなと思うと同時に、心に愉快と満足とを覚えて、暫く足を橋の上に駐《と》めて、芸者の後影《うしろかげ》を見送った。多分買物にでも出たのだろう、雀斑芸者は講武所の横町へ姿を隠してしまった。
 その頃まだ珍らしい見物《みもの》になっていた眼鏡橋《めがねばし》の袂《たもと》を、柳原の方へ向いてぶらぶら歩いて行く。川岸の柳の下に大きい傘を張って、その下で十二三の娘にかっぽれを踊らせている男がある。その周囲にはいつものように人が集まって見ている。末造がちょいと足を駐めて踊を見ていると、印半纏を着た男が打《ぶ》っ附かりそうにして、避《よ》けて行った。目ざとく振り返った末造と、その男は目を見合せて直ぐに背中を向けて通り過ぎた。「なんだ、目先の見えねえ」とつぶやきながら、末造は袖に入れていた手で懐中を捜《さぐ》った。無論何も取られてはいなかった。この攫徒《すり》は実際目先が見えぬのであった。なぜと云うに、末造は夫婦喧嘩をした日には、神経が緊張していて、不断気の附かぬ程の事にも気が附く。鋭敏な感覚が一層鋭敏になっている。攫徒の方ですろうと云う意志が生ずるに先だって、末造はそれを感ずる位である。こんな時には自己を抑制することの出来るのを誇っている末造も、多少その抑制力が弛《ゆる》んでいる。しかし大抵の人にはそれが分からない。若し非常に感覚の鋭敏な人がいて、細かに末造を観察したら、彼が常より稍《やや》能弁になっているのに気が附くだろう。そして彼の人の世話を焼いたり、人に親切らしい事を言ったりする言語挙動の間に、どこか慌ただしいような、稍不自然な処《ところ》のあるのを認めるだろう。
 もう内を飛び出してから余程時間が立ったように思って、川岸を跡へ引き返しつつ懐時計《ふところどけい》を出して見た。まだやっと十一時である。内を出てから三十分も立ってはいぬのである。
 末造は又どこを当ともなしに、淡路町《あわじちょう》から神保町《じんぼうちょう》へ、何か急な用事でもありそうな様子をして歩いて行く。今川小路の少し手前に御茶漬と云う看板を出した家がその頃あった。二十銭ばかりでお膳を据えて、香の物に茶まで出す。末造はこの家を知っているので、午《ひる》を食べに寄ろうかと思ったが、それにはまだ少し早かった。そこを通り過ぎると、右へ廻って俎橋《まないたばし》の手前の広い町に出る。この町は今のように駿河台《するがだい》の下まで広々と附いていたのではない。殆ど袋町《ふくろまち》のように、今末造の来た方角へ曲がる処で終って、それから医学生が虫様突起と名づけた狭い横町が、あの山岡鉄舟の字を柱に掘り附けた社《やしろ》の前を通っていた。これは袋町めいた、俎橋の手前の広い町を盲腸に譬《たと》えたものである。
 末造は俎橋を渡った。右側に飼鳥《かいとり》を売る店があって、いろいろな鳥の賑《にぎ》やかな囀《さえず》りが聞える。末造は今でも残っているこの店の前に立ち留まって、檐《のき》に高く弔《つ》ってある鸚鵡《おうむ》や秦吉了《いんこ》の
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