女中が飯の菜を何にしようかと問うても、返事をしなかったり、「お前の好《い》いようにおし」と云ったりする。末造の子供は学校では、高利貸の子だと云って、友達に擯斥《ひんせき》せられても、末造が綺麗好で、女房に世話をさせるので、目立って清潔になっていたのが、今は五味《ごみ》だらけの頭をして、綻《ほころ》びたままの着物を着て往来で遊んでいることがあるようになった。下女はお上さんがあんなでは困ると、口小言を言いながら、下手の乗っている馬がなまけて道草を食うように、物事を投遣《なげやり》にして、鼠入らずの中で肴《さかな》が腐ったり、野菜が干物になったりする。
 家の中の事を生帳面《きちょうめん》にしたがる末造には、こんな不始末を見ているのが苦痛でならない。しかしこうなった元は分かっていて、自分が悪いのだと思うので、小言を言うわけにも行かない。それに末造は平生小言を言う場合にも、笑談《じょうだん》のように手軽に言って、相手に反省させるのを得意としているのに、その笑談らしい態度が却《かえ》って女房の機嫌を損ずるように見える。
 末造は黙って女房を観察し出した。そして意外な事を発見した。それはお常の変な素振が、亭主の内にいる時殊に甚しくて、留守になると、却って醒覚《せいかく》したようになって働いていることが多いと云う事である。子供や下女の話を聞いて、この関係を知った時、末造は最初は驚いたが、怜悧《れいり》な頭で色々に考えて見た。これはする事の気に食わぬ己《おれ》の顔を見ている間、この頃の病気を出すのだ。己は女房にどうかして夫が冷澹《れいたん》だと思わせまい、疎まれるように感ぜさせまいとしているのに、却って己が内にいる時の方が不機嫌だとすると、丁度薬を飲ませて病気を悪くするようなものである。こんなつまらぬ事はない。これからは一つ反対にして見ようと末造は思った。
 末造はいつもより早く内を出たり、いつもより遅く内へ帰ったりするようになった。しかしその結果は非常に悪かった。早く出た時は、女房が最初は只驚いて黙って見ていた。遅く帰った時は、最初の度にいつもの拗《す》ねて見せる消極的手段と違って、もう我慢がし切れない、勘忍袋の緒が切れたと云う風で、「あなた今までどこにいましたの」と詰め寄って来た。そして爆発的に泣き出した。その次の度からは早く出ようとすると、「あなた今からどこへ行くのです」と云
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