今は親しい会話の上に、暗い影のさす、悲しい味を知ったのである。暫くして爺いさんは、何か娘の口から具体的な返事が聞きたいような気がしたので、「一体どんな方だい」と、又新しい方角から問うて見た。
「そうね」と云って、お玉は首を傾《かし》げていたが、独語《ひとりごと》のような調子で言い足した。「どうも悪い人だとは思われませんわ。まだ日も立たないのだけれども、荒い詞なんぞは掛けないのですもの」
「ふん」と云って、爺いさんは得心の行《ゆ》かぬような顔をした。「悪い人の筈はないじゃないか」
お玉は父親と顔を見合せて、急に動悸《どうき》のするのを覚えた。きょう話そうと思って来た事を、話せば今が好《い》い折だとは思いながら、切角暮らしを楽にして、安心をさせようとしている父親に、新しい苦痛を感ぜさせるのがつらいからである。そう思ったので、お玉は父親との隔たりの大きくなるような不快を忍んで、日影《ひかげ》ものと云う秘密の奥に、今一つある秘密を、ここまで持って来たまま蓋《ふた》を開けずに、そっくり持って帰ろうと、際どい所で決心して、話を余所に逸《そ》らしてしまった。
「だって随分いろいろな事をして、一代のうちに身上《しんしょう》を拵えた人だと云うのですから、わたくしどんな気立の人だか分からないと思って、心配していたのですわ。そうですね。なんと云ったら好《い》いでしょう。まあ、おとこ気のある人と云う風でございますの。真底からそんな人なのだか、それはなかなか分からないのですけれど、人にそう見せようと心掛けて何か言ったりしたりしている人のようね。ねえ、お父っさん。心掛ばかりだってそんなのは好いじゃございませんか」こう云って、父親の顔を見上げた。女はどんな正直な女でも、その時心に持っている事を隠して、外の事を言うのを、男程苦にしはしない。そしてそう云う場合に詞数の多くなるのは、女としては余程正直なのだと云っても好いかも知れない。
「さあ。それはそんな物かも知れないな。だが、なんだかお前、檀那を信用していないような、物の言いようをするじゃないか」
お玉はにっこりした。「わたくしこれで段々えらくなってよ。これからは人に馬鹿にせられてばかりはいない積なの。豪気《ごうぎ》でしょう」
父親はおとなしい一方の娘が、めずらしく鋒《ほこさき》を自分に向けたように感じて、不安らしい顔をして娘を見た。「うん。
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