の属官を勤めている。もう六十幾つとかになるが、綺麗好きで、東京中を歩いて、新築の借家を捜して借りるが、少し古びて来ると、すぐ引き越す。勿論子供は別になってしまってから久しくなるので、家を荒すような事はないが、どうせ住んでいるうちに古くなるので、障子の張替もしなくてはならず、畳の表も換えなくてはならない。そんな面倒をなるたけせぬようにして、さっさと引き越すのだと云うのである。婆あさんはそれが厭でならぬので、知らぬ人にも夫の壁訴訟をする。「この内なんぞもまだこんなに綺麗なのに、もう越すと申すのでございますよ」と云って、内じゅうを細かに見せてくれた。どこからどこまで、可なり綺麗に掃除がしてある。末造は一寸|好《い》いと思って、敷金と家賃と差配の名とを、手帳に書き留めて出た。
今一つは無縁坂の中程にある小家《こいえ》である。それは札も何も出ていなかったが、売りに出たのを聞いて見に行った。持主は湯島切通しの質屋で、そこの隠居がついこの間まで住んでいたのが亡くなったので、、婆あさんは本店《ほんてん》へ引き取られたと云うのである。隣が裁縫の師匠をしているので、少し騒がしいが、わざわざ隠居所に木なんぞを選んで立てたものゆえ、どことなく住心地が好さそうである。入口の格子戸から、花崗石《みかげいし》を塗り込めた敲《たた》きの庭まで、小ざっぱりと奥床しげに出来ている。
末造は一晩床の上に寝転んで、二つの中《うち》どれにしようかと考えた。傍には女房が子供を寐《ね》かそうと思って、自分も一しょに寐入ってしまって、大きな口を開《あ》いて、女らしくない鼾《いびき》をしている。亭主が夜、貸金の利廻しを考えて、いつまでも眠らずにいるのは常の事なので、女房は何時《いつ》まで亭主が目を開いていようが、少しも気になんぞはせぬのである。末造は腹のうちで可笑《おか》しくてたまらない。考えつつ女房の顔を見て、こう思った。「まあ、同じ女でもこんな面《つら》をしているのもある。あのお玉はだいぶ久しく見ないが、あの時はまだ子供上がりであったのに、おとなしい中に意気な処のある、震い附きたいような顔をしていた。さぞこの頃は女振を上げているだろうな。顔を見るのが楽みだな。かかあ奴《め》。平気で寐てけつかる。己だって、いつも金のことばかり考えているのだと思うと、大違いだぞ。おや。もう蚊が出やがった。下谷はこれだから厭だ。
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