だと云うことである。色の蒼《あお》い、ひょろひょろした美男ではない。血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。強いて求めれば、大分《だいぶ》あの頃から後《のち》になって、僕は青年時代の川上眉山《かわかみびさん》と心安くなった。あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。あれの青年時代が一寸《ちょっと》岡田に似ていた。尤《もっと》も当時|競漕《きょうそう》の選手になっていた岡田は、体格では※[#「二点しんにょう+向」、第3水準1−92−55]《はる》かに川上なんぞに優《まさ》っていたのである。
容貌はその持主を何人《なんぴと》にも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。遣《や》るだけの事をちゃんと遣って、級の中位《ちゅうい》より下には下《くだ》らずに進んで来た。遊ぶ時間は極《きま》って遊ぶ。夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。日曜日には舟を漕《こ》ぎに行くか、そうでないときは遠足をする。競漕前に選手仲間と向島《むこうじま》に泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。誰でも時計を号砲《どん》に合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠《よ》って匡《ただ》されるのである。周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本《もと》づいている。それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与《あず》かって力あるのは、ことわるまでもない。「岡田さんを御覧なさい」と云う詞《ことば》が、屡々《しばしば》お上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。此《かく》の如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。
岡田の日々《にちにち》の散歩は大抵道筋が極まっていた。寂しい無縁坂を降りて、藍染川《あいそめがわ》のお歯黒のような水の流れ
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