ヤって見たが、あの女はいつまでも君の後影を見ていた。おおかたまだこっちの方角を見て立っているだろう。あの左伝の、目迎えて而《しこう》してこれを送ると云う文句だねえ。あれをあべこべに女の方で遣っているのだ」
「その話はもうよしてくれ給え。君にだけは顛末《てんまつ》を打ち明けて話してあるのだから、この上僕をいじめなくても好いじゃないか」
こう云っているうちに、池の縁《ふち》に出たので、二人共ちょいと足を停めた。
「あっちを廻ろうか」と、岡田が池の北の方を指ざした。
「うん」と云って、僕は左へ池に沿うて曲った。そして十歩ばかりも歩いた時、僕は左手に並んでいる二階造の家を見て、「ここが桜痴《おうち》先生と末造君との第宅《ていたく》だ」と独語《ひとりごと》のように云った。
「妙な対照のようだが、桜痴居士も余り廉潔じゃないと云うじゃないか」と、岡田が云った。
僕は別に思慮もなく、弁駁《べんばく》らしい事を言った。「そりゃあ政治家になると、どんなにしていたって、難癖を附けられるさ」恐らくは福地さんと末造との距離を、なるたけ大きく考えたかったのであろう。
福地の邸《やしき》の板塀のはずれから、北へ二三軒目の小家《こいえ》に、ついこの頃「川魚」と云う看板を掛けたのがある。僕はそれを見て云った。「この看板を見ると、なんだか不忍の池の肴を食わせそうに見えるなあ」
「僕もそう思った。しかしまさか梁山泊《りょうざんぱく》の豪傑が店を出したと云うわけでもあるまい」
こんな話をして、池の北の方へ往く小橋を渡った。すると、岸の上に立って何か見ている学生らしい青年がいた。それが二人の近づくのを見て、「やあ」と声を掛けた。柔術に凝っていて、学科の外の本は一切読まぬと云う性《たち》だから、岡田も僕も親しくはせぬが、そうかと云って嫌ってもいぬ石原と云う男である。
「こんな所に立って何を見ていたのだ」と、僕が問うた。
石原は黙って池の方を指ざした。岡田も僕も、灰色に濁った夕《ゆうべ》の空気を透かして、指ざす方角を見た。その頃は根津に通ずる小溝《こみぞ》から、今三人の立っている汀《みぎわ》まで、一面に葦《あし》が茂っていた。その葦の枯葉が池の中心に向って次第に疎《まばら》になって、只|枯蓮《かれはす》の襤褸《ぼろ》のような葉、海綿のような房《ぼう》が碁布《きふ》せられ、葉や房の茎は、種々の高さに折れ
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