あと》はどうなっていますか」
「只今もあき家になっておりますが、折り折り夜になると、虎が参って吼《ほ》えております」
「そんならご苦労ながら、そこへご案内を願いましょう」こう言って、閭は座を起った。
 道翹は蛛《くも》の網《い》を払いつつ先に立って、閭を豊干のいたあき家に連れて行った。日がもう暮れかかったので、薄暗い屋内を見廻すに、がらんとして何一つない。道翹は身をかがめて石畳の上の虎の足跡を指さした。たまたま山風が窓の外を吹いて通って、うずたかい庭の落ち葉を捲き上げた。その音が寂寞《せきばく》を破ってざわざわと鳴ると、閭は髪の毛の根を締めつけられるように感じて、全身の肌に粟《あわ》を生じた。
 閭は忙《せわ》しげにあき家を出た。そしてあとからついて来る道翹に言った。「拾得《じっとく》という僧はまだ当寺におられますか」
 道翹は不審らしく閭の顏を見た。「よくご存じでございます。先刻あちらの厨《くりや》で、寒山と申すものと火に当っておりましたから、ご用がおありなさるなら、呼び寄せましょうか」
「ははあ。寒山も来ておられますか。それは願ってもないことです。どうぞご苦労ついでに厨にご案内を願いましょう」
「承知いたしました」と言って、道翹は本堂について西へ歩いて行く。
 閭が背後《うしろ》から問うた。「拾得さんはいつごろから当寺におられますか」
「もうよほど久しいことでございます。あれは豊干さんが松林の中から拾って帰られた捨て子でございます」
「はあ。そして当寺では何をしておられますか」
「拾われて参ってから三年ほど立ちましたとき、食堂《じきどう》で上座の像に香を上げたり、燈明を上げたり、そのほか供《そな》えものをさせたりいたしましたそうでございます。そのうちある日上座の像に食事を供えておいて、自分が向き合って一しょに食べているのを見つけられましたそうでございます。賓頭盧尊者《びんずるそんじゃ》の像がどれだけ尊いものか存ぜずにいたしたことと見えます。唯今《ただいま》では厨で僧どもの食器を洗わせております」
「はあ」と言って、閭は二足三足歩いてから問うた。「それから唯今寒山とおっしゃったが、それはどういう方ですか」
「寒山でございますか。これは当寺から西の方の寒巌と申す石窟に住んでおりますものでございます。拾得が食器を滌《あら》いますとき、残っている飯や菜を竹の筒に入れて取
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