は、寒山が文殊で拾得は普賢だと言ったために、文殊だの普賢だののことを問われ、それをどうかこうか答えるとまたその文殊が寒山で、普賢が拾得だというのがわからぬと言われたときである。私はとうとう宮崎虎之助さんのことを話した。宮崎さんはメッシアスだと自分で言っていて、またそのメッシアスを拝みに往く人もあるからである。これは現在にある例で説明したら、幾らかわかりやすかろうと思ったからである。
しかしこの説明は功を奏せなかった。子供には昔の寒山が文殊であったのがわからぬと同じく、今の宮崎さんがメッシアスであるのがわからなかった。私は一つの関を踰《こ》えて、また一つの関に出逢ったように思った。そしてとうとうこう言った。「実はパパアも文殊なのだが、まだ誰も拝みに来ないのだよ」
[#地から1字上げ]大正五年一月
底本:「日本の文学3 森鴎外(二)」中央公論社
1967(昭和42)年2月4日初版発行
入力:佐野良二
校正:伊藤時也
2000年9月12日公開
2004年12月4日修正
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