せたやうに光つてゐる。もう飲んでゐるなと、己は思つた。果してワシリは通過ぎながら、体を背後へ反らせて、帽を脱いで礼をして、己に言つた。「飲みましたよ。」
「それは勝手さ」と己は云つた。
「なに、構ひません。おこつては厭ですよ。酒は飲みますが、決して酔ひはしません。あなたに頼んで置きますがね、お内に預けてある袋を誰にも渡さずに置いて下さい。わたくしが自分で行つて、渡して下さいと云つても、渡しては行けませんよ。分かりましたか。」
 己は冷淡に答へた。「分かつた。だがね、酒に酔つて己の天幕へ来るのは御免だよ。」
「行きはしません」と云ひながら、ワシリは馬に一鞭当てた。馬は鼻を鳴らして前を挙げて駆け出したが、まだ三間も行かない内に、ワシリは又馬を控へて、己の方へ向いた。「好い馬ですよ。大した金になります。わたくしは賭をしてゐます。この駆ける所を見て下さい。これで韃靼人に売れば、直段《ねだん》はわたくしのいふ通りになります。韃靼人といふ奴は、馬の好いのを、命よりも大切にしますからね。」
「なぜ売るのだね。売つてしまつて、これから先どうする。」
「売らなくてはならないから売ります。」ワシリは又一鞭当てた。併し又手綱を控へた。
「実はわたくしは、この村で知人《しりびと》に逢つたのです。もう何もかも棄てゝしまひます。御覧なさい。あの青に乗つてゐる韃靼人がそです。『おい/\。アハメツトや。ちよつと来い』。」
 我々の背後《うしろ》から付いて来た、青毛のすらりとした小馬に乗つた男が、己の橇の側へ駆け寄つて、帽を脱いで礼をして、微笑んだ。己も物珍らしく思つて、その韃靼人の顔を見た。
 アハメツトの狡猾らしい顔は相好を崩して笑つてゐる。小さい目が面白げに、横着らしく、又親しげに相手の顔を見詰めてゐる。その見方は詞で言つたら、「分かるでせう、無論わたくしは横着者です、併し横着者でなくては駄目ですね」とでも云つたら好からうと思はれる。
 この幅の広い骨々しい顔、この目の周囲の面白げな皺、この横へ出張つた、薄い耳を見ては、相手も笑はずにゐられない。
 アハメツトは相手が自分を理解してくれたと信じたらしく、満足げに頷いた。そしてワシリを指さして云つた。「友達です。一しよに流浪して歩いたものですよ。」
「今どこにゐるのだね。この土地では見掛けないやうだが。」
「わたくしはこの土地へ旅行券を取りに来ました。鉱山のある土地へ行つて、焼酎を売るのです。」
 鉱山で焼酎を売る事は、ロシアでは厳禁してある。掴まへられゝば、懲役になる。こつそり持ち込む道も危ない。道に迷つて飢ゑ死んだり、カサアキ兵の弾丸《たま》を食つたり、競争者のナイフで刺されたりする。その代り旨く持ち込めば、同じ目方の金貨とでも替へられる。鉱山で焼酎を売るのは、金を掘るより儲が大きいのである。
 己はワシリの顔を見た。ワシリは俯向いて手綱をいぢつたが、直ぐに又頭を挙げて、火のやうに赫く目をして、戦を挑むやうに己の顔を見た。堅く結んでゐる口の下唇がぴく/\してゐる。
「わたくしはこいつと一しよに森へ行きます。そんな顔をしてわたくしを見なくても好いぢやありませんか。どうせわたくしは流浪人だから、流浪人で果てますよ。」
 最後の詞は、もう馬を飛ばせて、雪を雲のやうに蹴立てながら言つたのである。
 一年程立つてから、己は又村でアハメツトに逢つた。又旅行券を取りに戻つたのである。
 ワシリは又と戻らなかつた。



底本:「鴎外選集 第15巻」岩波書店
   1980(昭和55)年1月22日第1刷発行
初出:「文藝倶楽部 十八ノ一」
   1912(明治45)年1月1日
※底本は本作品の翻訳原本として、ドイツ語版の「SIBIRISCHE NOVELLEN」を、ドイツ語による表題として「〔DIE FLU:CHTLINGE VON SACHALIN.〕」を掲げています。
入力:tatsuki
校正:しず
2004年10月7日作成
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