つて来て、直ぐに何もかも包んでしまふ。己は為事《しごと》をする気になられない。ランプを点《つ》けるのが厭なので、己は薄暗がりに、床《とこ》の上で横になつてゐる。あたりが暗くて静かな時には、兎角重くろしい感じが起るものである。己はせうことなしに、その感じに身を委ねてゐる。さつきまで当つてゐた夕日の、弱い光が、天幕内の部屋の、氷つた窓から消えてしまつた。隅々から這ひ出して来たやうな闇が、斜に立つてゐる壁を包む。そしてその壁が四方から己の頭の上へ倒れ掛かつて来るやうな気がする。暫くの間は、天幕の真ん中に据ゑてある、大きな煖炉の輪廓が見えてゐた。この煖炉が、己の住んでゐるヤクツク地方の人家の、極まつた道具で、どの家でも同じやうな、不細工な恰好をしてゐる。その内広がつて来る闇が、とうとう煖炉を、包んでしまつた。己の周囲《まはり》は只|一色《ひといろ》の闇である。只三個所だけ、微《かす》かに、ちらちら光つてゐる所がある。それは氷つた窓である。
 何分か立つたらしい。何時間か立つたらしい。己はぼんやりして、悲しい物懐しい旅の心持が、冷やかに、残酷に襲つて来るのに身を任せてゐた。己の興奮した心は際限も
前へ 次へ
全94ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング