オランの経文にある戒律なぞには頓着しない。馬に乗つてゐるものも、道を歩いてゐるものも、妙な稲妻形に歩くのである。どうかすると馬が物に驚いて横飛びをして、橇を引つ繰り返す。そしてその馬は往来を走つて逃げようとする。はふり出されて、雪の中を引き摩られてゐる乗手は、力一ぱいに手綱を控へて、体の周囲《まはり》の雪を雲のやうに立てゝゐる。馬を駐める事が出来なかつたり、橇から投げ出されたりする事は、殊に酒に酔つた場合には、誰にもあり勝ちの事である。併しさういふむづかしい場合にも、手から手綱を放しては、韃靼人の恥辱になるさうである。
おや。あそこの真つ直ぐな町の脇に、変つた賑ひがあるぞ。馬に乗つてゐるものが脇へ避ける。歩いてゐるものが矢張り避ける。赤い着物を着て化粧をした韃靼人の女が、往来に出てゐる子供を中庭へ追ひ込む。天幕の中から物見高い奴等が顔を出す。そして誰も彼も、一つ方角を見詰めてゐる。
長い町の向うの端に、今丁度一群の騎者が現はれた。それが韃靼人やヤクツク人の間で大層流行つてゐる競馬だといふ事は、己には直ぐに知れた。騎者は凡六人位である。旋風《つむじかぜ》のやうに駆けて来る。その群が近づいたのを見ると、どれよりも擢《ぬき》んでゝ、真つ先を駆けてゐるのは、きのふワシリが乗つて来た鼠色の馬である。一歩毎にその馬と外の馬との距離が遠くなる。一分間の後には、もう一群は己の目の前を通り過ぎてしまつた。
見物してゐた韃靼人の目は皆輝いてゐる。逆上と妬《ねたみ》との為めである。
騎者は皆馬を走らせながら、手足を動かして、体をずつと背後《うしろ》へ反らせて、大声でどなつてゐる。只一人ワシリだけはロシア風に乗つてゐる。体を前に屈めて、馬の頸を抱くやうにして、折々短い、鋭い、口笛を吹くやうな声を出す。それが馬には鞭で打たれるやうに利くのである。鼠色の馬は脚が殆ど地を踏まないやうに早く駆けて行く。
見物人の同情は、矢張り例の如く勝手《かちて》の上に集まつてゐる。
「豪《えら》い奴だ」と大勢が叫ぶ。競馬好に極まつてゐる、長年|馬盗坊《うまどろばう》をして来た、この男達は馬の蹄で地を踏む拍子を真似て、平手で腰をはたいてゐる。
ワシリは全身に泡を被《かぶ》つた馬に乗つて、帰つて来る途中で、己の側へ来た。負けた騎者はまだずつと跡になつて付いて来る。
ワシリの顔は青くなつて目は逆《のぼ》
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