ふものゝあるのを、己達が聞いて駈け付けて、その男を土人の手から救ひ出したのだ。
それからといふものは、その男は樺太から逃げ出す囚人の助けにならうと心掛けてゐる。不断云ふには、己は死ぬるまで樺太の囚人に恩返しをしなくてはならないと云つてゐる。その頃から今までに、大ぶ人を助けたよ。お前方もその男の内へ行くが好い。きつと世話をしてくれるに違ひない。
もうこれで好い。もうみんなぐづ/\してゐては行けない。ワシリや。どうぞみんなに言ひ付けて、己の墓をこゝへ掘らせてくれ。こゝは丁度好い所だ。向岸から吹いて来る風が、己の墓に当る。向岸から打ち寄せる波が、己の墓の下まで来る。どうぞ直ぐに為事に掛からせてくれ。」
ブランの言つた事は、こればかりではなかつたのですが、大概こんなものでした。一同ブランの詞に随つて、墓を掘りに掛かりました。
老人は落葉松の木の下に坐つてゐる。わたくし共は例の小刀で土を掘り上げる。さて穴が出来ましたので、一同祈祷をしました。
老人はぢつとして坐つてゐて、合点合点をします。その両方の頬からは涙が流れ落ちるのです。
日が這入つてしまつた頃、ブランは死にました。暗くなつてから、わたくし共はブランを穴の中へ入れて、上から土を掛けました。
丁度船を漕ぎ出すと、月が登つて来ました。わたくし共は互に顔を見合せて帽を脱いで礼をしました。背後《うしろ》の岸を見返ると、樺太の岩山がごつ/\してゐて、その上にブランの落葉松の枝が靡いてゐたのですね。」
八
「シベリアの岸に着いて聞けば、サルタノフが残酷に殺されたといふ話が、もう土人にも知れてゐるといふ事でした。風が吹き伝へでもしたやうに、この風説は広まつたのです。同志の者は漁《すなどり》をしてゐる二三の土人に出逢つて、その口からこの話を聞いた時、土人等は首を振つて、変な顔附をしました。その顔附は内々喜んでゐるといふ風に見えました。わたくし共は腹の内で思ひました。沢山笑ふが好い。己達はどうなるか分からない。事に依るとサルタノフの首の代りに、この首を取られるかも知れないと思ひました。
土人はわたくし共に肴《さかな》をくれて、こんな道もある、こんな道もあると逃道を教へてくれました。それを聞いてわたくし共は歩き出しました。なんだかおこつてゐる炭火の上を踏んで行くやうでした。物音がすると、一同びつくりする。人家
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