ストを隔てて布いてあつたりするから、いつ出食はすか分からないのですね。為合せな事には、どれも旨く除けて通つて、とう/\最後の警戒線まで来たのです。」
     ――――――――――――
 ワシリはこゝまで話して間を置いた。それから暫くしてから、立ち上がつた。
 己は「なぜ跡を話さないのか」と云つた。
「馬の世話をして遣らなくてはなりません。もう丁度好い時分でせう。行つてほどいて遣らうかと思ひます。」
 ワシリが中庭へ出るので、己も付いて出た。
 寒さが少しゆるんで、霧が低くなつた。
 ワシリは空を仰いで見た。「大ぶ星が高いやうです。もう夜中を過ぎたのでせう。」
 もう霧が遠い所を遮つてゐないので、今は近い部落の天幕がはつきり見える。部落は皆寝静まつてゐる。どの内の煙突からも白い煙が立つてゐる。稀には火の子が出て、寒空で消えるのもある。ヤクツク人は夜通し煖炉を焚いてゐるが、それでも温《あたゝま》りは長くは持たない。だから夜中に寒くなると、誰か早く目の醒めたものが薪をくべ足すのである。
 ワシリは暫く黙つて立つて、部落の方を見てゐたが、溜息を衝いた。「久し振りで部落といふものを見ますね。もう大ぶ久しい間見ずにゐたのです。ヤクツク人は大抵固まつて住はないで、一人一人別な所に住ひますからね。わたくしもこつちの方へ越して来ませうか。こゝいらなら住み付かれるかも知れませんね。」
「ふん。今お前さんのゐる所には住み付かれないのかね。田地を持つてゐるぢやないか。それにさつきも今の境遇に安んじてゐるやうに云つてゐたぢやないか。」
 ワシリは直ぐには答へなかつた。「どうも行けませんね。この辺の様子を見なければ好かつた。」
 ワシリは馬の側へ寄つて顔を見て、撫でて遣つた。賢い馬は顔を見返して嘶《いなゝ》いた。ワシリは、さすりながらかう云つた。「よしよし。待つてゐろ。今に外して遣る。あした又働いてくれなくてはならないぞ。あしたは韃靼《だつたん》の馬と駈競《かけくら》をするのだ。」
 それから己の方に向いて云つた。「好い馬ですよ。わたくしが乗り馴らしました。どんな競馬馬と駈競をさせても好いのです。旋風《つむじ》のやうに走りますよ。」
 ワシリは繩を解いて枯草のある方へ馬を遣つた。己はワシリと一しよに天幕の内へ這入つた。

     七

 ワシリの顔は天幕に帰つてからも矢張不機嫌らしく見えた
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