ない、広漠たる山や、森や、野原を想像し出す。それが己を、懐しい、大切なあらゆるものから隔てゝゐるのである。その懐しい、大切なものは皆|疾《と》つくに我が物ではなくなつてゐるが、それでもまだ己を引き付ける力を持つてゐる。
その物はもう殆ど見えない程の遠い所にある。殆ど消えてしまつた希望の光に、微かに照らされてゐる。そこへ、己の心の一番奥に潜んでゐる、抑へても、抑へても亡ぼす事の出来ない苦痛が、そろそろ這ひ出して来て、大胆に頭をもたげてこの闇の静かな中で、恐ろしい、凄《すご》い詞を囁く。「お前はどうせいつまでもこの墓の中に生きながら埋められてゐるのだ。」
ふと天幕の平たい屋根の上で、うなる声のするのが、煙突の穴を伝つて、己の耳に聞えた。物思に沈んでゐた己は耳を欹《そばだ》てた。あれは己の友達だ。ケルベロスといふ犬だ。それが寒さに震ひながら番をしてゐて、己が今どうしてゐるか、なぜ明りを点けずにゐるかと思つて問うて見てくれたのだ。
己は奮発して起き上がつた。どうもこの暗黒と沈黙とを相手にして戦つてゐては、とうとう負けてしまひさうなので、防禦の手段を取らなくてはならないと思つたからである。その防禦の手段といふのは、神がシベリアの天幕住ひをしてゐるものに授けてくれたものである。火である。
ヤクツク人は冬中煖炉を焚き止めずにゐる。それから西洋でするやうに、煙突の中蓋を締めるといふ事はない。併し己は中蓋を拵へてゐる。その蓋は外から締めるやうになつてゐるのでその都度己は天幕の屋根の上に登らなくてはならない。
天幕の外側には雪を固めた階段が、屋根際まで付けてある。己の天幕は村はづれにあつて、屋根の上からはその村の全体が見渡される。村は山々に取り囲まれた谷間に出来てゐる。不断はこの屋根から村の天幕の窓の明りが見える。移住して来たロシア人の子孫や、流されて来た韃靼人《だつたんじん》の住ひである。けふは霧が冷たく、重く地の上に下りてゐて、少しの眺望も利かないので、不断見える明りが一つも見えない。只屋根の真上に星が一つ光つてゐる。それもどうしてこの濃い霧を穿《うが》つてこゝまで照らしてゐるかと、不思議に思はれる位である。
どの方角もしんとしてゐる。河を挾んでゐる山も、村の貧しげな天幕も、小さい会堂も、雪を被つてゐる広い畑《はた》も、暗く茂つてゐる森の縁も、皆果てのない霧に包まれてし
前へ
次へ
全47ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング