たくし、ふいと思ひましたよ。どうも御厄介になつて済みません。わたくしの部落の方へお出でになつたら、どうぞ忘れないで、お寄りなすつて下さい。好い加減な事を言ふのではありませんから。」
三
ワシリは茶を飲んでしまつて、又煖炉の火の前に腰を掛けた。無論まだ寝るわけには行かない。主人を乗せて来て汗になつた馬が落ち着いた上で、飼《かひ》を付けて遣つて、それから寝なくてはならない。食料は枯草で好いのである。ヤクツク地方の馬は余り丈夫ではない。併し飼ふには面倒が少ない。ヤクツク人はバタやその外の食料を馬に付けて、ずつと遠いウチユウル河の方に住んでゐるツングスク人に売りに行く。森の中や鉱山で稼いでゐる所へ売りに行くのである。何百ヱルストといふ遠道を歩かせる。途中では枯草を食はせる事も出来ないのである。
そんな時には、日が暮れると、茂つた森の中に寝る。木を集めて焚火をする。馬は森に放して置く。さうすると雪の下に埋もれてゐる草を捜して、ひとりで食ふのである。それから夜が明けると、又遠道を歩かせる事になつてゐる。
飼ふにその位骨の折れない馬だけれど、一つ注意しなくてはならない事がある。それは道を歩かせた跡で直ぐ飼を付けてはならないといふ事である。それから十分に物を食はせた時は、直ぐに歩かせる事が出来ない。一日の間食はせずに置いて、それから使ふのである。
さういふわけで、ワシリは三時間馬の体の冷え切るのを待たなくてはならない。己も付き合ひに起きてゐる。そこで二人向き合つて坐つてゐるが、めつたに詞は交はさない。
ワシリは煖炉の火が消えさうになるので、薪を一本づゝくべてゐる。ヤクツクで冬を通した人は、煖炉に薪をくべ足すのが習慣になつてゐるのである。
長い間黙つてゐて、突然ワシリが「遠いなあ」と云つた。自分で何か考へた事に、自分で返事をしたらしい。
「何が」と己が問うた。
「わたくし共の故郷です。ロシアです。こゝまで来ると、何もかも変つてゐます。馬でさへさうですね。国では馬に乗つて内へ帰れば、何より先に飼を付けなくてはならない。ところが、この土地でそんな事をしようものなら、馬は直ぐに死んでしまふ。人間だつて違ひますね。森の中に住んでゐる。馬肉を食ふ。おまけに生で食ふ。腐つてゐても食ふ。いやはや。恥といふものを知らない。人が宿を借りて、煙草入を出せば、直ぐ下さいと云つて手
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