ば、この土地では相応に楽に暮されるやうになるのである。
一体ヤクツク人は人の善い性《たち》で、所々の部落で余所《よそ》から来たものに可なりの補助をして遣る風俗になつてゐる。実はこんな土地へ、運命の手に弄《もてあそ》ばれて来たものは、補助でも受けなくては、飢ゑ凍えて死ぬるか、盗賊になるかより外に為方《しかた》がないのである。ヤクツク人は又土地を通り抜けるものにも補助をして遣る事がある。それは足を留められては厄介だと思ふからである。さういふ補助を受けて、土地を立つて行つたもので、又帰つて来るものはめつたに無い。そんなのでなく、真面目に働かうと思ふものには、土人が補助をして、間もなく相応に自活の出来るやうにさせる事になつてゐる。
最初ワシリは部落の自治団体から小屋を一つ、牡牛を一疋貰つて、その年に燕麦《からすむぎ》の種を六ポンド貰つた。為合《しあは》せとその年は燕麦の収穫が好かつた。その外ワシリは、土地のものと契約して、草を苅らせて貰つた。煙草の商ひもした。こんな風にして二年立つ内に相応な世帯が出来たのである。
土地のものはこの男を相応に尊敬して、面と向つてはワシリ・イワノヰツチユさんといふが、蔭で噂をする時は、只ワシリといふ丈である。牧師が冠婚葬祭の用で歩く時などは、ワシリの小屋へ立ち寄る。それからワシリが牧師を尋ねて行くと、食卓で馳走をする。この土地では我々のやうに教育のあるものが、余所から移住したのを、読書人として特別に取り扱ふのだが、その読書人にもワシリは心易くしてゐる。
そんな風で見れば、ワシリは面白く、満足して暮してゐられない筈がない。十分な事を言へば、これから結婚でもすべきだらう。一体法律は流浪人の結婚を許さない事になつてゐるが、こんな辺鄙では、金を出して、慇懃に頼めばそれも出来ない事ではない。
かういふ身の上のワシリではあるが、今向き合つて坐つて見てゐると、そのしつかりした顔付に、多少異様な所がある。最初ちよいと見た時程には、もう己には気に入らなくなつたが、それでもまだ厭な顔だとは思はない。黒目勝の目が折々物案じをするらしく、又物分かりの好ささうに見える事がある。総ての表情が意志の固い所を示してゐる。挙動は陰険らしくない。声の調子からは自信のある人の満足が聞き出される。
只折々顔の下の方がぴくぴく引き吊つて、目の色がどんよりして来る事がある。不
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