は何もかもあなたに縦《ゆる》してしまいましたの。ただ二人の間に子供を持つ事が出来ないばかりでございますわ。(画家|欷歔《ききょ》す。)あなたがそうしておしまいなさったのでございますから、為様《しよう》がございませんわ。
画家。(小声にて。)それでも。
令嬢。ええ。
画家。どうしても今一|度《ど》、現実の世界で。
令嬢。いいえ。それは致さない方が宜《よろ》しゅうございますの。無理に致しましても、その製作は失敗に終りますわ。
画家。ああ。
令嬢。あなたにはそんな心持は致しませんですか。わたくし共二人は、遠い遠い無人島《むにんとう》で、何年も何年も暮しましたのでございますわ。
画家。(頭《あたま》を擡《もた》ぐ。)はあ。
令嬢。そして愛の限りを味わって幾度《いくたび》も幾度も接吻《せっぷん》いたしましたの。
画家。それがもう出来ないんですか。
令嬢。(微笑む。)ええ。出来ませんわ。
画家。なぜでしょう。
令嬢。もう無人島《むにんとう》から帰って来たのでございますもの。帰って来て見れば、ただの世界で、物が重りを持っていたり、日がさせば影を落したり致しますのでございますからね。そして出来事と出来事との間には、遠い道のように、年月というものがあるのでございますからね。こんな世界に帰って来て見れば、あなたとわたくしとはこれでお別に致さなくてはなりませんのでございます。
画家。(煩悶して。)そんならどうでも別れるというのですか。
令嬢。お別だけがこの世界へ帰ってからのものに残っていたのでございますわ。別なんというものは、時間に属するものですから、あの島ではそんなものはなかったのでございます。(間。)
画家。(立ち上る。)わたくしの方では、きのうの事は幕明《まくあき》の音楽で、忙《せわ》しい調子の中へ、あらゆるモチイヴを叩き込んだものに過ぎないので、これからが本当の曲になると云いたいのですが、あなたには、何んと云ってもそう考えて下さる事が出来ないのですね。
令嬢。これから本当のオペラにしようと仰ゃるのでございますか。
画家。(頷《うなず》く。)ええ。これから本当のアクションにしようというのです。
令嬢。(微笑む。)なぜわたくしがオペラと申しましたのを、わざわざアクションという詞にお換《かえ》あそばしたの。もしこの跡を続けましたら、それこそオペラでございますわ。本当のお芝居でございますわ。わたくしはそれが怖いと存じたのでございます。
画家。まあ。そんな事までいつの間に考えていたのですか。
令嬢。ゆうべ夜通し考えていましたの。(間。)
画家。(あちこち歩き始む。)何もかもノンセンスだ。(間。また歩きつつ。)不思議だ。
令嬢。ええ。不思議でございますとも。この不思議の中に立って、踏み迷わずに、しっかりしていなくってはならないのでございますわ。(画家立ち留る。)ええ。大抵の人なら迷ってしまうかも知れませんわ。そういたして、目のくるめくような楽の急調を、常の日に調べようと致すのでございましょう。しかし舞の伴奏の楽は、ただ歩く時の足取には合うはずがございませんの。不調和な、馬鹿らしいものになり勝でございますわ。お互にそんな事は致したくないのでございますからね。お互に兎に角、翼《つばさ》のある情緒《じょうちょ》を持っている人間なのでございますからね。
画家。そこまで深く考えて見たのですか。
令嬢。ええ、ええ。そんな事は、あなたの方では考えて下さらないという事が、わたくしには分っていましたの。年上でございますからね。(画家|科《こなし》あり。令嬢|徐《しずか》に。)ええ。年上でございますよ。それにきのうとは違いますの。(調子を変う。)しかし兎に角、お互に普通の人間でだけは無い事が分りましたのでございますね。
画家。普通でないとは。
令嬢。新人でございますわ。何んに致せ、あの大勢のいる宴会の中で、隠れ蓑《みの》、隠れ笠《がさ》をでも持っているように致す事の出来た二人でございますから。
画家。おう。そういえばあなたはゆうべも隠れ笠という事を云いましたっけね。
令嬢。ええ。申しましたわ。そんな風になられるまで、因襲の外《ほか》に脱出しているのでございますからね。人のいたのなんぞは、ちっとも邪魔には成りませんでしたわ。今日あたりはきっとみんなで評判を致しているのでございましょう。ミルネル画伯はあの令嬢に大相《たいそう》取り入るようだったなんぞと云っているのでございましょうよ。あしたあたりおばの処へ参りますと、おばがきっと、ミルネルさんが訪問においでなさりそうなものだなんというのでしょう。そう致してあなたがおいでなさりはなさるまいかと二週間位は心待《こころまち》に待つのでございましょうよ。(笑う。)わたくし共が二十年も御一しょに暮した事は、おばさんは知らないのですからね。人はたった二時間だと思っていたのでございますから。
画家。なぜ二十年というのですか。
令嬢。(快活に。)ええ。二十年位で若死《わかじに》を致したものと思って見ましたの。(画家頭を振る。)幸福の真最中《まっさいちゅう》に死んだのでございますわ。美しい死でございましょう。こんな閲歴は外の人には出来ますまいではございませんか。
画家。(嘲《あざけり》を帯びて。)あんな風になら、一人で幾生涯でも生きて見られようじゃありませんか。
令嬢。(真面目に。)ええ。それが出来ましたなら、現代人の芸術の能事《のうじ》畢《おわ》れりではございますまいか。
画家。芸術ですと。
令嬢。芸術と申しましたのは悪かったかも知れません。そんなら現代人の要求とでも申しましょうか。一つ一つの閲歴にそれ相当の調子を与える事が出来まして。それが一つ一つの全きものになりましたなら、一つ一つの生涯になりましたなら、その人は千万の生涯を閲《けみ》する事が出来ましょうではございませんか。
画家。そして千万たび死ぬるのですか。
令嬢。ええ。千万たびの死を凌《しの》ぐのでございます。そんな風にはお感じなさいませんか。
画家。どうしてそんな事をいうのですか。
令嬢。わたくしがどうしてそう思うのだか、お分りになりませんの。(立ち上る。)あなたは画家でいらっしゃいます。一日絵をおかきなさいますでしょう。それがただの一日でございますか。
画家。いいえ。勿論それはただの一日ではありません。多くの日をその一つの図に入れるのです。出来る事ならわたくしの覚えているだけの日をみんな入れるのです。
令嬢。それ御覧なさいまし。秘密を道破しておしまいなさいましたわ。
画家。なぜ。
令嬢。あなたはきのう宴会にいらっしゃる時、絵をかきかけて置いていらっしゃったのではございませんか。
画家。かいてはいなかったのです。しかし。
令嬢。でもかこうと思っていらっしゃったのでございましょう。
画家。かけるかも知れないと位は思っていたのですよ。
令嬢。(喜ばし気に。)そこでおかきなさったのでございますわ。あなたは作品に加える尺度をわたくしに加て、わたくしとあなたとの間を、一つの作品にしておしまいなさったのでございます。しかも不朽の作品に。
画家。(悲し気に。)あなたが不朽だといったって、その作品は今日跡もなく亡《ほろ》びているのです。
令嬢。あなたはそう仰ゃるけれど、あなたのおかきになった絵だって、いつ誰《だれ》が見てもその絵と見えるように、いつもそこにあるというわけではございますまい。そんな事はないのでございましょう。あなたの絵があるというのは、あなたの絵の生命のある処へ這入って行く事の出来る人のためにあるというわけでございましょう。その意味からいえば、ゆうべお作りなさった作品も、不朽に存在しているというものではございますまいか。
画家。(真面目に相手を見る。間。)なるほど。あなたはそんな風に考えたのですか。
令嬢。(頷く。)ええ。そう考えましてわたくしだけは、生活のために必要なある教《おしえ》を得たのでございますの。
画家。そう云うと教というものが、必要なようですが、実は世の中には、何んといったら好いでしょうか、手本無しに生活して見ようという人も随分あるのではないでしょうか。因襲なんぞから得《え》来《きた》った智識《ちしき》を自分に応用せずに、初めて人間として生れて来たもののように振舞うのですね。もしそういう人があったなら、その人は一つ一つの出来事に、それに協《かな》った尺度を持って行って当てるわけではないでしょうか。無意識にそれに協った尺度を当てるのですね。
令嬢。それは一つか二つか、三つ位までの出来事には無意識に当てた尺度が丁度好いという事もあるのでございましょう。しかし幾ら手本無しに生活すると申《もうし》ましても、そういう人でございましても、どうせ生々《ういうい》しいのでございましょうから、何事かに出合まして、五つや六つの調子を覚えましても、それから先は分りませんから、その五つか六つの調子をあらゆるものに当て嵌める事になってしまうのでございましょう。人生に応ずるには幾千の調子が入《い》るか知れないのでございます。そこで一つ間違を致しますと、そういう人は慌てまして、きっとこれまでに覚えている因襲の内の、一番現在の場合に当嵌りそうなのを持って来て、それを応用しようと致すのでございましょう。(間。)あなたのお身の上で申して見ますれば、あなたはわたくしと結婚あそばしたのでございましょう。
画家。(正直に驚きたる様子。)いや。結婚なぞをする積《つもり》ではなかったのです。
令嬢。結婚はなさらなかったのでございますの。そんならどうあそばすはずでございましたの。
画家。そりゃあ。(間。)そうですね。そんな事をいったって駄目だし。
令嬢。いいえ。なんでも宜しゅうございますから言って御覧なさいましよ。
画家。ただ一しょになっていたのだろうというのです。
令嬢。ここにでございますか。
画家。それはここでも好いし、どこか外《ほか》へ行ったら、猶《なお》好いでしょう。あなたのおばさんが喧《やかま》しそうですから。
令嬢。まあ。結婚も致さずに、ただ何がなしに御一しょにいるのでございますね。
画家。そうです。何がなしにです。そら。外の絵かきもやっているでしょう。(令嬢笑う。画家黙りて相手の顔を、何故《なにゆえ》笑うかと問いたげに見る。令嬢いよいよ笑う。)何がそんなに可笑《おか》しいのですか。
令嬢。それでも、そんな風な生活は、もうとっくに因襲になってしまっているじゃあございませんか。
画家。それでも。因襲といったって。
令嬢。ええ、ええ。同じ因襲でも、一般の社会での因襲でなくって、ある狭い仲間内での因襲でございましょう。しかし因襲は因襲でございますから、狭い仲間内の因襲だからと申しましても、特別に好いはずはないではございますまいか。そんな風に致しましたら、わたくしはやっぱり段々に扮装《みなり》なんぞは構わなくなりまして、化粧《おしまい》も致さないようになりますのでございましょう。(画家|呆《あき》れて相手の顔を見おり、さてついに己《おの》れも笑い出《いだ》す。令嬢また笑う。)それ御覧なさいましな。(間。)まあ、お互にこういたして笑っていられます間に、お暇乞《いとまごい》をいたしましょう。
画家。(驚く。)行くのですか。
令嬢。ええ。ただ、今一つ申して置きたい事がございます。どうぞこんな事になりましたのを、おくやみなさらないで下さいまし。もしわたくしの事を思い出して下さいますなら、どうぞ昨晩のような調子にしてお考えあそばして下さいまし。美しい調子に、メロヂイのある調子にしてお思い出しあそばして下さいまし。それだけは是非お願い申して置かなくてはなりません。わたくしの致した事を、もし不断の尺度で、日常生活の尺度で量って下さいましたら、それはわたくしのためにひどい冤罪《えんざい》になるのでございますから。
画家。(令嬢の手を握り、目を見合せ、黙りいる。さて。)どうもこうなれば為様がありません。日常生活の尺度で量っても好いような幸福はないものでしょうか。(手を放す。)
令嬢。そんな幸福を求めようと仰ゃるの
前へ
次へ
全9ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング