で、この場でそうまであそばさない方がようございましょう。そんなに一息に何もかも過ぎ去らせておしまいなさいますな。まだこれから生きなければならないのでございますからと、そう申してお留め申したかったのでございます。それにあなたはどうしてもお聞きあそばさなかったではございませんか。そして無理にわたくしを引き摩って、先へ先へと駈けていらっしゃいましたでしょう。何もかも残さずに、総《すべ》てを得なくてはならないという風に。(詞を緩め、悲し気に。)それだもんでございますから、とうとうわたくしはあなたに総てを捧げてしまいましたの。
画家。(一瞬間令嬢を凝視し、突然その膝《ひざ》に身を投げかけ、両手を肩に掛け、抱《いだ》き付きて叫ぶように。)ああ。ヘレエネさん。
令嬢。(両手の間に画家の頭を挟みて抑え、目と目を見合せ、一瞬間極めて真面目になりいて、さて詞ゆるく、極めて悲し気に。)これでとうとうお別も致しましたのね。(間。)
画家。(忽然、激しく愉快を感じたる如く、一層厳しく抱《いだ》き付きて。)これきりだなんて、ひどいではありませんか。あんな大勢の人の中で話をしたきりで、お互の生涯が済んだと見做されるものですか。まあ。考えて見て下さいよ。
令嬢。(優しく。)それでも済んだものは済んだのでございますから、どう致す事も出来ませんわ。あんな席で、人の中ではございましたけれど、あなたがそうあそばすものでございますから、わたくしの心の底の底まで明放して、わたくしのあなたに捧げられるだけのものは捧げてしまったのでございますの。(画家|徐《しずか》に手を放す。)あなたの感情の猛烈な処も、お優しい処も、みんなわたくしには分っていますの。それですから、どんな事をあそばしたって、意外だなんとは存じませんわ。ただ一刹那の間《あいだ》ではございましたけれど、あなたはただ手と手とが障ったばかりで、わたくしを裸体《らたい》にしてお抱《だ》きあそばしたのでございますよ。
画家。(煩悶《はんもん》して。)どうぞ堪忍して下さい。
令嬢。(画家の方へ俯向《うつむ》く。)わたくしはそれを後悔なんか致しませんの。わたくしのためにも大きい幸福でございましたわ。本当に嬉しいと存じましたわ。
画家。(顫《ふる》いつつ仰ぎ見て、頼むように。)ヘレエネさん。(令嬢の膝の上に俯伏す。)
令嬢。(画家の髪を撫《な》づ。)本当にわたくしは何もかもあなたに縦《ゆる》してしまいましたの。ただ二人の間に子供を持つ事が出来ないばかりでございますわ。(画家|欷歔《ききょ》す。)あなたがそうしておしまいなさったのでございますから、為様《しよう》がございませんわ。
画家。(小声にて。)それでも。
令嬢。ええ。
画家。どうしても今一|度《ど》、現実の世界で。
令嬢。いいえ。それは致さない方が宜《よろ》しゅうございますの。無理に致しましても、その製作は失敗に終りますわ。
画家。ああ。
令嬢。あなたにはそんな心持は致しませんですか。わたくし共二人は、遠い遠い無人島《むにんとう》で、何年も何年も暮しましたのでございますわ。
画家。(頭《あたま》を擡《もた》ぐ。)はあ。
令嬢。そして愛の限りを味わって幾度《いくたび》も幾度も接吻《せっぷん》いたしましたの。
画家。それがもう出来ないんですか。
令嬢。(微笑む。)ええ。出来ませんわ。
画家。なぜでしょう。
令嬢。もう無人島《むにんとう》から帰って来たのでございますもの。帰って来て見れば、ただの世界で、物が重りを持っていたり、日がさせば影を落したり致しますのでございますからね。そして出来事と出来事との間には、遠い道のように、年月というものがあるのでございますからね。こんな世界に帰って来て見れば、あなたとわたくしとはこれでお別に致さなくてはなりませんのでございます。
画家。(煩悶して。)そんならどうでも別れるというのですか。
令嬢。お別だけがこの世界へ帰ってからのものに残っていたのでございますわ。別なんというものは、時間に属するものですから、あの島ではそんなものはなかったのでございます。(間。)
画家。(立ち上る。)わたくしの方では、きのうの事は幕明《まくあき》の音楽で、忙《せわ》しい調子の中へ、あらゆるモチイヴを叩き込んだものに過ぎないので、これからが本当の曲になると云いたいのですが、あなたには、何んと云ってもそう考えて下さる事が出来ないのですね。
令嬢。これから本当のオペラにしようと仰ゃるのでございますか。
画家。(頷《うなず》く。)ええ。これから本当のアクションにしようというのです。
令嬢。(微笑む。)なぜわたくしがオペラと申しましたのを、わざわざアクションという詞にお換《かえ》あそばしたの。もしこの跡を続けましたら、それこそオペラでございますわ。本当のお芝居でございます
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