の空《そら》にて。)相変らず踊やなんぞで夜を更かすのかい。
モデル。(悲し気に。)ええ。年が年中ですわ。
画家。(笑う。)ふん。体が台なしになるよ。さようなら。
モデル。さようなら。(急ぎ足に退場。)
画家。(為事机の前に立ち、紙巻を喫みながら、部屋の内を見廻す。娘が戸を開くる時、詞急に。)おう。掃除をしてくれたのに礼も直《ろく》に言わなかったっけ。それから何んだっけ。何時頃《なんどきごろ》にこの前を通るかい。
モデル。ここを通るのですか。お午《ひる》にはおっ母《か》さんの処へ帰るのですから、もう二時間もすれば通りますわ。
画家。二時間と。丁度好い。その時少し花を買って来てくれないか。どうだ。そうしてくれるか。
モデル。(たゆたいつつ。)何んの花でございますの。
画家。さっき話したお嬢さんに上げるのだ。己の処には何んにもありゃしない。自分で買いに行くと、留守に来られるかも知れない。ここの婆《ばあ》さんを頼んで使にやると、お極《きま》りでにおいあらせいとうを買って来やがる。花といえばきっとあれを買うのだ。まるで固定妄想《こていもうぞう》だ。何か気の利いた花を見立てて買って来てくれないか。どうだい。
モデル。(小声に。)薔薇《ばら》ではどうでしょう。
画家。何でも好い。お前ならとんちんかんな事はしないから。お嬢さんは丁度お前位のブロンドな髪をしているのだ。その積《つもり》で見立ててくれい。
モデル。それでは髪に挿す花ですね。
画家。(じれった気に。)髪に挿されれば、挿させても好いのさ。つまり花が上げたいのだ。(間。娘|行《ゆ》かんとす。)それからなあ。ついでに少し果物を取ってきてくれい。春ばかりでは物足りない。夏もいるからなあ。柑子《こうじ》が好い。よく真赤《まっか》に熟したのを買ってきてくれい。南国の甘い夏を包んでいるような柑子が好い。頼むよ。二時間ほどすれば来るんだな。
モデル。ええ、ええ。それでは花と柑子ですね。(戸を開《ひら》く。)
画家。持って来たらな。構わずにずっと這入って来いよ。お嬢さんを見せてやるから。
モデル。(やや敵対の語気にて。)わたしがお目にかからなくちゃあならないのでしょうか。
画家。なぜ。己が見せたいのだから、好いじゃあないか。
モデル。ええ、ええ。それでは花と柑子とを持って参りますよ。
画家。うむ。さようなら。(娘退場。画家はゆるやかに部屋の内をあちこち歩《あ》るきいる。折々ある絵の前に立ち留まりて、何を思うともなしに絵を見る事あり。また暫く歩きて、突然為事机の傍《そば》に寄り、机の上の物を上を下へといじり廻し、終りに壁に掛けたる袋の中よりブラシを見出《みいだ》して手に取り、上着の塵を払う。戸を叩く音す。画家は忙《いそが》わしく一《ひと》はけ二《ふた》はけ払いて、ブラシを投げ捨て、大股《おおまた》に、二三歩にて戸の処に行《ゆ》き、呼ぶ。)お這入りなさい。
令嬢ヘレエネ。(上品なる散歩服。極めて気高き態度。ブロンドなる髪。令嬢には少し老けたる年配。○画家は暫く詞無く、令嬢の顔を凝視す。)もうお見忘れなさいましたの。
画家。(急に物狂おしく。)ヘレエネさん。お待ち申していました。
令嬢。(画家が握手せんとして手を差伸ぶるを見て、徐《しずか》に右だけの手袋を脱ぎ、指輪を嵌《は》めたる、細長き、優しき手を出《いだ》す。握手。)わたくしには、あなたという事が直《すぐ》に分りましたの。
画家。でもお分りにならないはずはないではございませんか。
令嬢。しかし昼間お目にかかるのは初めてでございますからね。
画家。(少し我に返りて。)ほんにそうですね。実は少し面喰《めんくら》ったのです。どういうわけだかあなたはきっとヴェエルを被《かむ》っていらっしゃるはずのように思っていたもんですから。
令嬢。そうでございますか。こんな風な訪問を致す時はヴェエルを被《かむ》るものでございましたかねえ。
画家。そんな事をいっちゃあいけません。ただ何がなしにそんな気がしていたのです。
令嬢。御心配なさらなくっても、ようございますよ。わたくしの這入って参ったのは、誰も見てはいませんでした。
画家。(間の悪気に。)わたしはそんな事は何んとも思ってはおりません。さあ。どうぞ。(部屋の中へ入《い》れと勧むる振《ふり》を為《な》す。)
令嬢。(笑いつつ。)も少しで余所余所しくお嬢様とでも仰ゃりそうな処でしたね。そうでしょう。(歩み近付く。)
画家。いや。どうも。
令嬢。お嬢様、どうぞこちらへお通りあそばしませとでも仰ゃりそうでしたのね。(手近なる椅子に腰を掛く。)
画家。(真面目《まじめ》に。)ほんにそんな事を言いかねない処でした。
令嬢。(滑稽《こっけい》に。)やれやれ。もうお互の中《なか》もそこまでになりましたかね。(二人とも笑う。)
画家。莨
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