ッチを一本取りて摩《す》る。また戸を叩く音す。うるさがる様子にて。)お這入んなさい。(その内マッチの火消ゆ。燃えさしを床《ゆか》の上に投げ、また一本摩り、莨を吸付けながら、どうでもいいというようなる風にて戸の方を見る。○モデル娘《むすめ》。質素なる黒の上着に麦藁帽子《むぎわらぼうし》の拵《こしらえ》にて、遠慮らしく徐《しずか》に入《い》り来《きた》る。画家はマッチを振りて消す。)モデルか。入《い》らない、入《い》らない。また来ておくれ。(モデルの方に背中を向け、紙巻を喫《の》む。)
モデル。先生。わたしですよ。
画家。(急に向返《むきかえ》る。)何んだマッシャかい。見違えてしまった。黒なんぞ着てるんだから。どうしたんだい。
モデル。ただ、どんな御様子かと思って。
画家。そうか。大分長く顔を見せなかったなあ。近頃《ちかごろ》どうだい。
モデル。ええ。どうやらこうやらというような工合《ぐあい》ですよ。この頃はわたし共に御用はおありなさらないの。
画家。うむ。この頃はお休《やすみ》だ。どうだ。少し掛けないか。
モデル。でもお出掛でしょう。
画家。なぜ。
モデル。(画家の衣服を指さす。)そんなお支度でいらっしゃるじゃありませんか。
画家。これかい。そりゃあ出掛けるには出掛けるのだが、まだ早い。まあ腰でも掛けないか。近頃は忙《いそが》しいかい。
モデル。(進みて藁椅子に腰を掛く。画家は今一つの低き椅子の背に腰を半分掛く。)いいえ。どなたも何んにもなさらないようですわ。
画家。(微笑《ほほえ》む。)それ見ろ。己《おれ》だって同じ事だ。
モデル。(やはり微笑む。)それで毎日毎日何をしていらっしゃるの。
画家。フロックコオトに御奉公をしているのだ。こういっては分るまい。人の処へ訪問に出掛けたり、人に案内をして貰《もら》ったりしているのだ。
モデル。急にそんな事が面白くお成りになったの。
画家。いや、面白くも何んともありゃしない。
モデル。それなのにどうしてそんな事をしていらっしゃるの。
画家。ふん。自分のために面白い事が出来なければ為方《しかた》がないじゃないか。
モデル。おかきなされば好いでしょう。
画家。それがかけないのだ。
モデル。かけないのですって。
画家。うむ。
モデル。嘘《うそ》だわ。冬なんぞは。
画家。そりゃあ冬は違うさ。十一月頃の薄暗い天気の日に、十一時頃になっても光線が足りない時なんぞは、どんなにか気を揉《も》んだものだ。悪くすると一日明るくならずにしまうのだからな。あの頃もっと勉強して置けば好《よ》かった。あの頃かけば幾らでもかけたような気がしてならない。この頃は、朝早くから窓一ぱいの光線が差込む。それを使わずに見ているのが癪《しゃく》に障るので、己は昼まで寝部屋の中に寝ているのだ。
モデル。それには夜遅くお帰りなさるせいもあるでしょう。(間《ま》。)
画家。(真面目《まじめ》に。)なるほど。そりゃあ遅く帰るせいもあるだろう。うむ。人間は気保養《きほよう》もしなくてはならないからな。
モデル。ええ。保養をなすって、それから為事におかかりなさるが好いわ。
画家。なんだ。妙に己に意見をするような事をいうなあ。
モデル。(間《ま》の悪気《わるげ》に。)そんな訳ではございませんが、ふいとそう思ったもんですから。それに詞《ことば》のはずみですわ。
画家。詞のはずみばっかりかい。何んだかお前は厭《いや》に賢夫人らしくなったじゃないか。
モデル。(笑う。)全く詞のはずみで。(間の悪気に言い淀《よど》む。)
画家。どうだい。お前は何か稽古《けいこ》なんぞをした事があるのじゃないか。
モデル。一向出来ませんわ。すこおし読め出すと内が台なしになってしまったもんですから。
画家。急に貧乏になったのかい。
モデル。ええ。出し抜けでしたの。お父《とっ》さんが相場をして。
画家。そうかい。それじゃあ読めば読めるのだな。
モデル。ええ。読めますわ。小さい時にはお父さんの本棚の前に行って、見ていまして、これが読めたらと思っていたのです。それから読めるようになったら。
画家。ふん。読めるようになったらどうしたのだ。
モデル。その時はもう本なんか無くなっていましたの。
画家。そうかい。みんな差押えられてしまったのだな。
モデル。ええ。
画家。その後《のち》どうしているのだ。
モデル。こうしていますわ。(打萎《うちしお》れたる様子。)
画家。そこいらにある本で好いなら。いつでも持って行くが好いぜ。(本棚を指ざす。)
モデル。難有《ありがと》うございます。いつか中《じゅう》も願って見ようかと思っていましたの。(間。)
画家。格別|冊数《さつかず》はないが、あの中にでも何かしらあるだろう。(間。)何んだってそんなに己の顔を見るんだい。
モデル。あなたは丁度いつか中
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