しい。だが好いよ。かきかけたスケッチはあそこにあるし、己の頭の中には印象がはっきりしているのだから。じゃあ明日《あした》来て貰おう。
モデル。(思い掛けぬ喜びの様子。)あの明日《あした》参っても宜《よろ》しいのですか。
画家。(徐《しずか》に。)うむ。午前八時か九時頃に来て貰おう。来られるかい。
モデル。ええ、ええ。
画家。それで好い。さようなら。(戸を閉じて忙がし気に帰り来て、姉に。)姉さん。済みませんでした。少し言い残したことがあったもんですから。
姉。大相《たいそう》勉強するのね。明日《あした》八時からかくなんて。
画家。なあに。どうなるか分りゃしない。ただやって見るのです。マッシャが僕に諫言《かんげん》をしたというようなわけで。ははは。それはそうと姉さんはマッシャに握手をしておやりなさいましたね。大変喜んだようでしたよ。
姉。そりゃあお前の話に好く聞いていたんだから、古い知合《しりあい》のようなんだもの。去年の冬、いろんな事を聞いたのでしょう。まあ、あたりまえのモデルとは違うのね。
画家。そりゃあ違います。
姉。だが、別品ではありませんね。
画家。僕は別品だなんといった事はないでしょう。
姉。(微笑む。)それはありませんとも。それにわたしは丁度あんな風な子だろうと思っていましたの。真面目な、静《しずか》な顔付で、色艶が余り好くなくって。口は何事も堪《こら》えて黙っているという風な、美しい口なのね。額と目とには気高い処がありますね。目なんかは丁度あんな風だろうと想像していましたの。
画家。(詞急に。)そうでしょう。面白い目です。あの目に今日気が付いたのです。(間。)その外の事も姉さんの思っている通りかも知れません。(姉は弟の詞を解《かい》し兼ねたる如《ごと》く、顔を見る。)僕のいったのは、あの娘の心も顔のような風かも知れないというのです。(間。突然。)そうそう。あのロイトホルド君が今に来るのですがね。姉さんはここで顔を合せるのが厭ではありませんか。
姉。いいえ。わたしは構いませんの。
画家。でもあんなに熱心に、姉さんをおよめに貰おうとしていたのを、姉さんが弾付《はねつ》けたのですから。
姉。なあに。ちっともことを荒立てずに断ったのだから、わたしはここで逢《あ》ったって、困りませんの。それにあの方はもう内へは来られないでしょう。おっ母さんが変に思うから。昔風の人の考では、結婚の話をし掛けて、話が破れてしまったものは、それからどんな風にして交際をして好いか分らないんですからね。しかしわたしの考では、そんな風に、因襲がどうにも極《き》めていない場合が、却《かえっ》て面白い関係になるかも知れないでしょうと思いますの。そうではないでしょうか。
画家。こりゃあ面白い。ふん。因襲の外《ほか》に立った関係は面白い。僕なんぞも、そういう関係を求めているようなものです。
姉。人生というものが、そうしたものではないでしょうか。
画家。ふん。
姉。一体人間の真実の交際はみんな因襲の外《ほか》の関係ではないでしょうか。
画家。姉さんは実に面白い人ですね。
姉。笑談《じょうだん》は置いて、わたしがこうやってここへ来るのなんぞも、同じ道理かも知れないでしょう。
画家。姉さんが僕の処へ来るのですか。そんなら僕が弟でなくっても、姉さんはこの画室に来るでしょうか。
姉。そうね。きょうだいでないとして見ると、何んという資格で来たら好いでしょう。
画家。ただ貴夫人として、知合として、友達として。
姉。友達ですか。
画家。ええ。友達になって来て下さるか、どうだか怪しいものですね。
姉。(笑いつつ。)お前の処へなら来るでしょうよ。
画家。(やはり笑いつつ。)まあ、来て下さるものだと思って置きましょうよ。(間。真面目に。)本当に姉さんが来て下さると好いのだが。
姉。(解《かい》せざる様子。)ええ。
画家。実は僕は寂しくって為様がないのです。こないだから姉さんの処へ越して行こうかとも思って見ました。たしか客間が一つ明いていたでしょう。それともここで寂しいと思うのは、あんまり家が広過ぎるせいかも知れません。兎《と》に角《かく》姉さんとおっ母さんと僕と一しょに住《すま》って見るという事が、出来ない事もあるまいと思うのです。晩にでもなれば誰《たれ》か本でも読んで、みんなでそれを聞いたって好いでしょう。燈《あかり》を点《つ》けて本を読むのが目に悪けりゃあ、話をしていたって好いわけです。誰かが纏《まとま》った話をして、みんなで聴いても好いでしょう。事によったら黙っていたって一人で黙っているよりは好かろうじゃありませんか。実際僕は折々そんな風にみんなと一しょになっているような心持になるのですよ。(疑念を挟《さしはさ》むらしき姉の目付を見て言い淀む。)ふん。
姉。お前がそんな風に一
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