同時に其の附近に行はれて居つた方言が皆殺されてはしまはない、何處かに活きて居る、活きて居つてそれ等がいつか革命運動を起す。斯う云ふ風に言語のことを觀察するが宜しいと、斯う云つて居ります。兔に角土耳古の王が王になれば、それが一つの正統な王である。今のやうに腐敗して來て革命的なことが出て來ると云ふことを防ぐには、新しい貴族を作れば好い、新華族を作るやうにして、ぽつ/\腐らないやうにして行けば宜しいかと思ふ。口語の廣く用ゐられて來るやうなものを見ては之れをぽつ/\引上げて假名遣に入れる。さう云ふやうに楫《かぢ》を取つて行くのが一番好い手段ではあるまいかと思ふのであります。私は正則と云ふこと、正しいと云ふことを認めて置きたいのであります。
 ところが古い假名遣は頗る輕《かろん》ぜられて、一體に Authorities たる契冲以下を輕視すると云ふやうな傾向がございますが、少數者がして居ることは詰らぬと云ひますと云ふとどうでせう。一體倫理などでも忠孝節義などを本當に行つて居るものは何時も少數者である、それが模範になつてそれを廣く推及ぼして國民の共有にするのであります。少數者のして居ることにもう少し重きを措《お》くのが宜しいかと思ふ。古學者などの Authority はさう云ふ風に排斥せられると同時に、單に井上毅先生の字音假名遣説は殆ど金科玉條として立てられるやうでございますが、あれも餘りさう結構な御論ではないかと思ふのであります。一體漢字を假名に書くのは「易《やす》きに由る」のだと云ふのが井上毅先生の議論であります。併し假名に書くのは易きに由ると云ふのを本にすべきではあるまいかと思ひます。何處の國でも國語の中に外國の語が入つて來て國語のやうになる。そこで日本では漢語が國語になる。其の道中の宿場の樣になつて、假名で書いたものが行はれるのであります。中に全然國語になつたものもある。誰も知つて居る文の「ふみ」、錢の「ぜに」の類である。中には消息「せうそこ」などと云つて、是れも殆《ほと》んど假名で通用する國語のやうになつて居る。さう云ふ字は假名遣を廢して「しようそこ」と書いては分りにくいことになつてしまひます。其の外井上先生の今の支那音に引當てての御論と云ふものも餘り正確なものではないかと思ふ。要するに正だとか邪だとか云ふことが絶對的に假名遣にあるとは申しませぬけれども幾分か正しい側と云ふことがあるだらうと思ひます。西洋語の Orthographi eの orthos は正と云ふことであります。正しく書く法を Orthographie と云ふ。詞などと云ふやうなものも人の思想を表出するものであるから、正しいと云ふ詞を用ゐるのであります。正しいと云事《いふこと》は言へると思ふ。それから此の正と邪との關係と云ふことに連係しまして街道の譬と云ふものが頻《しき》りに本會に於て行はれて居る。昔の假名遣は舊街道である、其處《そこ》へ持つて行つて發音的の新しい假名遣が作られる、是れは便利なる横道である、何も舊い街道を正道として便利な新しい假名遣を邪道とすることはないと云ふのであります。此の話は少しく自分の見る所では事實に違つて居る樣であります。決してさう云ふ便利な新しい道が出來て居らないのであります。例之《たとへ》ば「つくゑ」と云ふ詞を見ましても、此wの子音に當る「う」と云ふ音、是が響かないのであります。其の響かないのを發音的に書くならば、誰が書いても「つくえ」と阿《あ》行の「え」を書いて居る筈《はず》であります。それならば新しい道が出來て居る譯で、それを認めてやつても宜しい譯であります。併し實際人の書いたのを見ましても、机の「ゑ」は阿行の「え」を書いたり、和行の「ゑ」を書いたり、波《は》行の「へ」を書いたり、有ゆる假名を使つて居ります。さうして見ると人民一般は田とも云はず畠とも云はず、道のない所を縱横に歩いて居るのであります。實に亂雜|極《きはま》つて居る、むちや[#「むちや」に傍点]であります。そこで若し文部省に於て新しく發音的に訂して行きまして、阿行の「え」を書けと云ふ新道を開きますと云ふと、さうすると今度は道が二條出來ます。人民は又二條のどれ[#「どれ」に傍点]にも由らずに縱横に田畠を荒して歩くかも知れないと思ふ。却て問題は複雜になつて來る。さう云ふ關係は獨り此の假名遣のみではありませぬ、文法|弖爾乎波《てにをは》にもございます。例之ば文部省で許容になつて居ります「得せしむ」と云ふ弖爾乎波がある。あれは「得しむ」と云ふ詞である。併し口語では決して「得しむ」も「得せしむ」もない。口語では「得させる」斯う云つて居る。「得さす」と云ふ詞になつて居る。だから口語の變遷即ち言語變遷には何の關係も無くして「得せしむ」と云ふ詞が生じて來た。何故生じて來たかと云ふと、是れは言語の變遷ではない、是れは文盲から生じ來たのである。「得しむ」と云ふ詞を知らない人が「得せしむ」と云ふ詞を書いた。例の惡口の歌に「伊勢をかし江戸ものからに京きこえししとせしとは天下通用」と云ふ間違をひやかした[#「ひやかした」に傍点]歌があります。丁度あゝ云ふ譯で一時流行して來たのであります。斯う云ふことは又弖爾乎波ばかりではない、漢字にもあります。私は勿論何にも知らない、漢字も知りませぬ。併し模糊《もこ》などと云ふ語はどの新聞を見ても「も」の字が米へんになつて居りますが、あれなどは木へんだと云ふことであります。斯う云ふのを一々變遷だと認めて來ると今度は新しい漢字までも拵《こしら》へなければならぬことになつて來ようかと思ひます。兎に角私は今便利な新道が出來て居ると認めるのは觀察を誤つて居るのではないかと思ふ。それから街道の比喩に對して芳賀博士は又別な比喩を出されました。舊《ふる》い街道は是れは街道ではない、廢道になつてしまつて居るのである、荊棘《いばら》が一杯生えて居つて、それを古學者連が刈除いて道にしようと思つたけれども、人民は從つて行かない。斯う云ふやうな比喩を出されました。私共の立場から見ると云ふと、此の假名遣は昔も或は國民の皆が行つた道ではない、初めも或少數者の行つた道であらう。それが段々に大きい道になつて來たのである。縱令《たとひ》中頃定家假名遣が出まして、一頓挫を來しましても少し荊棘が生えましても、荊棘を刈除いて、元《も》との道を擴げて、國民が皆歩むやうな道にすると云ふことが、或は出來るものではないかと云ふやうな、妄想かも知れませぬけれども、想像を自分は有つて居ります。何處の國でも言語の問題に付いては、國語を淨《きよ》めようと云ふことを一の條件にして調査をするのであります。其の國語を淨めると云ふ側から行きますと云ふと、此の假名遣の道を興すのが一番宜しいかと思ふ。元の假名遣を興して、其の中へ新しい假名も採用する。それには先づ舊街道の荊棘を除いて人の善く歩けるやうにしてやります。そこへ持つて行つて文明式の Macadam 式の築造をしようとも Asphalt を布かうとも、何れでも宜しいと云ふ考であります。
 それから街道の比喩と共に許容と云ふことが先頃から問題になつて居ります。此の許容と云ふのは Tolerance だと云ふ説明を聽きました。例之ば國で定つた宗教がありまして、人民が外の宗教を信じてもそれを許容する。それが Tolerance である。Tolerance と云ふことを使はれる場合は多くは何か正則なものが先きへ認めてある。正則のものがなくて Tolerance と云ふことはありませぬ。彼の弖爾乎波《てにをは》の許容になりましたときなどは、まだ元の語格を正則にしてある。それに背いて居る弖爾乎波を許容する。斯うなつて居ります。「得しむ」は正則である、「得せしむ」は許容すると云ふのでありますから、趣意は能く分つて居ります。此の比例が假名遣になつてから狂つて來ました。元の假名遣を正則にして發音的に新に作る假名遣を許容するなら宜しい。然るに發音的に新造する分の假名遣を正則にして、教科書に用ゐるのでありますと、それは許容ではない。之に就いては度々諸方から議論がありました。少し野卑なことを申しまするけれども、此度の假名遣に於けるところの許容と云ふことは、稍※[#二の字点、1−2−22]《やゝ》とんちんかん[#「とんちんかん」に傍点]だと思ふのであります。此の許容に就きまして、どうも私共の見る所では、世間に便利な道が出來て居るから許容すると云ふ、其の便利な道が出來て居ると云ふ御認定が、稍※[#二の字点、1−2−22]大早計である。早過ぎる場合が多いやうに思ふのであります。例之ば「得せしむ」と人が書いたところが、それを直に採上《とりあ》げて是れが言語の變遷であると云つて、是れが便利な新道であると云つて、御認めになつて御許容になる。そんな必要はないかと思ひます。文盲の人があつて「得しむ」と云ふ語を知らないで「得せしむ」と書く。決して「得しむ」が不便だから「得せしむ」にしようと云つて書くのではないのであります。さうすると新聞や小説でもさう書く。それが媒介になつて次第に擴がる。是れも古びが着いて一つの歴史的のものになれば、誤謬《ごびう》から生じた詞でも認めんければならぬのでありますけれども、それを急いで認めることはどうも宜しくないかと思ひます。例之ば氣の狂つた人があつて道もない所を奔《はし》り、衆人が附いて行く。直にそれを是れが道だと云つて、大勢が附いて行くから道だと云つて直にそれを道にすると云ふのは、少し其の仕事が面白くないかと思ふ。間違を人のするのを跡を追駈けて歩いて居るやうに、吾々の立場から見ると見えるのであります。斯う云ふ工合で行きますと、例の漢字の間違なども、どうかすると流行つて來る。其の跡を追駈けると云ふと、新しく嘘の漢字の辭書を作らんければならぬ。嘘字盡《うそじづくし》を作ることになりはせぬかと思ひます。何處の國でも國語のことを調べるときには、國語を淨めると云ふことを運動の土臺にして居ります。それに反して斯う云ふ風な仕事をしまするのは國語を濁すのであります。勿論初め誤から生じましても、前に申しまする通り、時代を經て古びが着いて自然に新しい國語のやうになつたと云ふ場合には、無論それを取るべきであります。丁度華族のお仲間に新華族が出來て來るやうな譯であります。それは國語の歴史にも先例がある。例之ば「あらたし」と云ふ語がある。是れが「あたらし」となる。斯う云ふのは是れは口語の變遷に基いて新しい語を認めたのであります。それから同じ許容になつて居る弖爾乎波の中でも「せさす」を「さす」にするやうなことは、是れは口語の方で久しく一般に行はれて居る。斯う云ふのは是れは認めて宜しい。それから種々の漢語の字音に就きまして、間違の例が今までも引かれて居りますが、例之ば畜生と云ふのは本當は「きうしやう」だと申します。さう云ふのは「ちくしやう」と云ふ國語と認めて宜しい。新しい語で言ひましても、輸出《しゆしゆつ》を「ゆしゆつ」と云ふ。此の位に固まつて來れば國語と認めるのに異議はないのであります。併し餘り早まつて認定をしないで、少しづゝ徐々に認定をするのが至當な方法であらうと思ふのであります。さう云ふやうに私は少數の人が用ゐて居つても、其の少數の人が國民の精華とも云ふべき人であるならば、其の用ゐて居るものを廣く國民に及ぼすと云ふことを圖りたいと云ふ考であります。
 此考に付いて最も芳賀博士などのお説とは衝突を來たすのであります。芳賀博士は必要不必要と云ふことを論ぜられます。多數の用ゐて居らぬものを多數に強付ける必要はないと云ふのであります。さう云ふことをする權能は文部大臣にあるかどうか疑はしいと、斯う云はれるのであります。芳賀博士の總ての御議論は實に達識な御議論であつて、感服して居ります。併し此の必要不必要の論、文部大臣にさう云ふ權能がありや否やと云ふ御論には、少し私は同意が出來ないのであります。言語の變遷は口語の上にあります。それは自然に行はれて行く。文語の方になりますと云ふと、是れは人工の加つ
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