「錢」の外に、あゝ云ふ類の之に準ずべきものがあります。例之《たとへ》ば「天地」と云ふことは「あめつち」よりか「てんち」の方が行はれて居る。是位に日本化すれば是れは國語と見なければならぬ。それに反して所謂漢字に隱れて居る字音と云ひまするものは、日本化した程度の極く低いものである。字音に隱れて居るから之れを改めることは容易だと云つてありまするけれども、字音に隱れて居る程ならば改めないでも宜しいかも知れないと云ふ一方には理由が立ちます。そこでさう云ふ日本化して居る程度の低いものは除いて、十分日本化して居るものを小學等に教へると云ふことになりますると云ふと、字數が自然に限られることになる。其の少數の字數ならば字音假名遣と雖ども教へられるかと思ふのです。そんなら久しく音の訛つて居るものはどうするか。例之ば今の「輸出《しゆしゆつ》」が「ゆしゆつ」になつて居ると云ふやうなことであります。斯う云ふのは「ゆしゆつ」と云ふ新國語と認めます。是れは音でない、訓だと思へば宜しいのであります。是れは字音としての取扱を停止すれば宜しいのであります。然らば未だ字音の考へられて居らぬものはどうするか。大槻先生は烏帽子の「烏」は「え」であるか「ゑ」であるかと云ふ疑を御引きになりました。斯う云ふことこそ國語調査會と云ふやうな所で定案を作つて、兎に角一つの案を作つてそれを公認せられることが必要であるかと思ふのであります。
併し困難は獨り字音ばかりではない、國語の假名遣にもあります。此の場合では殊に少數のむつかしい[#「むつかしい」に傍点]假名から教へるといふ手段を研究して、其の方法をもう少し完全に作れば、假名遣を廣く教へることが出來ようかと思ひます。諮詢《しじゆん》案では「動詞の活用から出て居る假名」と云ふものだけを保存することになつて居りまするが、其の御趣意は至極結構な御趣意と思ひます。併し實際の案に表はれて居るところはどうも用意周到でないやうに思ふのであります。例之ば和行の假名を以て言つて見ますると「居る」と云ふ語は假名遣を存して置く。是れが名詞になつて、例之ば坐に居る「位」、「圓居」、「芝居」と云ふ假名になると阿行の「い」になるやうに思はれる。又「据う」と云詞《いふことば》でも「すう」と云ふ假名遣が存してある。「つきすゑ」の「つくゑ」又「いしずゑ」の「ゑ」になると、是れは阿行になつてしまふ。斯う云ふことがあつて見ると云ふと、どうも境界がはつきり[#「はつきり」に傍点]しないやうに思ひます。どうも此の案は未だ十分熟して居るまいかと思ひます。教育團とか云ふものの意見と云ふのが、此の頃新聞に出て居りますが、大いに參考すべきことがあるやうに見受けます。大體の論は私は取りませぬけれども、此の諮詢案に對する教育團の意見と云ふものには宜しいところがあるかと思ひます。又國語の假名遣で未だ考へてないもの、例之ば「くぢら」か「くじら」か、「たはら」か「たわら」かと云ふやうなこと、是れも先刻の字音と同じく、斯う云ふことこそ國語調査會などで研究せられて其の結果を公認せられたら宜しいかと思ひます。兎に角字音にも國語にも假名遣に困難はありますけれども、凌ぐべからざる程の困難はないやうに思ひます。
そこで自分の意見を尚《な》ほ約《つゞ》めて申しますれば次の通りであります。第一に假名遣は成程性質上から保守的なものである。併しながら發音的の側から見ても大なる不都合があるものとは認めない。夫故《それゆゑ》に教科書などでは矢張假名遣の正則として之を用ゐられたいと云ふ、此點は陸軍省も一般に其の意見であります。第二は假名遣は發音的に改めると云ふことを爲し得るものである。政府は極く愼重に調査して漸を以て改められるが宜しい。其の時には國語を淨《きよ》めると云ふことを顧慮して、徐々に直されたい。斯う云ふのであります。それから次に第三に此の假名遣を直すに先立つて、國語にも字音にも假名遣の未定問題があるから、さう云ふことは學者の團體にでも命じて兎に角定めさせてそれを公認せられたい。斯う云ふのであります。そこで此の諮詢案と云ふものはどうも未だ熟して居らぬやうに思ふ。尚ほ附け加へて申したい意見があります。どうか政府に於ては純粹に發音による國語の書き方と云ふことを、一層深く研究せられて、丁度西洋で發音學者、Phonetik の學者がいろ/\研究して居るやうに國語を成るたけ完全に發音的に書くと云ふ方法を研究せられたいと斯う思ふのであります。どうも唯今改正案になつて居る發音的の假名と云ふものは發音的でない所があるやうに思ふ。矢野君でありましたか、斯う言はれました、「かう」だの「こう」だの「かふ」だの「こふ」だのを「こう」と書く、それは矢張發音的に「こお」と「お」の字を書いた方が宜しいと云ふことを言はれましたが、御尤
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