、是れは言語の變遷ではない、是れは文盲から生じ來たのである。「得しむ」と云ふ詞を知らない人が「得せしむ」と云ふ詞を書いた。例の惡口の歌に「伊勢をかし江戸ものからに京きこえししとせしとは天下通用」と云ふ間違をひやかした[#「ひやかした」に傍点]歌があります。丁度あゝ云ふ譯で一時流行して來たのであります。斯う云ふことは又弖爾乎波ばかりではない、漢字にもあります。私は勿論何にも知らない、漢字も知りませぬ。併し模糊《もこ》などと云ふ語はどの新聞を見ても「も」の字が米へんになつて居りますが、あれなどは木へんだと云ふことであります。斯う云ふのを一々變遷だと認めて來ると今度は新しい漢字までも拵《こしら》へなければならぬことになつて來ようかと思ひます。兎に角私は今便利な新道が出來て居ると認めるのは觀察を誤つて居るのではないかと思ふ。それから街道の比喩に對して芳賀博士は又別な比喩を出されました。舊《ふる》い街道は是れは街道ではない、廢道になつてしまつて居るのである、荊棘《いばら》が一杯生えて居つて、それを古學者連が刈除いて道にしようと思つたけれども、人民は從つて行かない。斯う云ふやうな比喩を出されました。私共の立場から見ると云ふと、此の假名遣は昔も或は國民の皆が行つた道ではない、初めも或少數者の行つた道であらう。それが段々に大きい道になつて來たのである。縱令《たとひ》中頃定家假名遣が出まして、一頓挫を來しましても少し荊棘が生えましても、荊棘を刈除いて、元《も》との道を擴げて、國民が皆歩むやうな道にすると云ふことが、或は出來るものではないかと云ふやうな、妄想かも知れませぬけれども、想像を自分は有つて居ります。何處の國でも言語の問題に付いては、國語を淨《きよ》めようと云ふことを一の條件にして調査をするのであります。其の國語を淨めると云ふ側から行きますと云ふと、此の假名遣の道を興すのが一番宜しいかと思ふ。元の假名遣を興して、其の中へ新しい假名も採用する。それには先づ舊街道の荊棘を除いて人の善く歩けるやうにしてやります。そこへ持つて行つて文明式の Macadam 式の築造をしようとも Asphalt を布かうとも、何れでも宜しいと云ふ考であります。
それから街道の比喩と共に許容と云ふことが先頃から問題になつて居ります。此の許容と云ふのは Tolerance だと云ふ説明を聽きました。例之ば國で定つた宗教がありまして、人民が外の宗教を信じてもそれを許容する。それが Tolerance である。Tolerance と云ふことを使はれる場合は多くは何か正則なものが先きへ認めてある。正則のものがなくて Tolerance と云ふことはありませぬ。彼の弖爾乎波《てにをは》の許容になりましたときなどは、まだ元の語格を正則にしてある。それに背いて居る弖爾乎波を許容する。斯うなつて居ります。「得しむ」は正則である、「得せしむ」は許容すると云ふのでありますから、趣意は能く分つて居ります。此の比例が假名遣になつてから狂つて來ました。元の假名遣を正則にして發音的に新に作る假名遣を許容するなら宜しい。然るに發音的に新造する分の假名遣を正則にして、教科書に用ゐるのでありますと、それは許容ではない。之に就いては度々諸方から議論がありました。少し野卑なことを申しまするけれども、此度の假名遣に於けるところの許容と云ふことは、稍※[#二の字点、1−2−22]《やゝ》とんちんかん[#「とんちんかん」に傍点]だと思ふのであります。此の許容に就きまして、どうも私共の見る所では、世間に便利な道が出來て居るから許容すると云ふ、其の便利な道が出來て居ると云ふ御認定が、稍※[#二の字点、1−2−22]大早計である。早過ぎる場合が多いやうに思ふのであります。例之ば「得せしむ」と人が書いたところが、それを直に採上《とりあ》げて是れが言語の變遷であると云つて、是れが便利な新道であると云つて、御認めになつて御許容になる。そんな必要はないかと思ひます。文盲の人があつて「得しむ」と云ふ語を知らないで「得せしむ」と書く。決して「得しむ」が不便だから「得せしむ」にしようと云つて書くのではないのであります。さうすると新聞や小説でもさう書く。それが媒介になつて次第に擴がる。是れも古びが着いて一つの歴史的のものになれば、誤謬《ごびう》から生じた詞でも認めんければならぬのでありますけれども、それを急いで認めることはどうも宜しくないかと思ひます。例之ば氣の狂つた人があつて道もない所を奔《はし》り、衆人が附いて行く。直にそれを是れが道だと云つて、大勢が附いて行くから道だと云つて直にそれを道にすると云ふのは、少し其の仕事が面白くないかと思ふ。間違を人のするのを跡を追駈けて歩いて居るやうに、吾々の立場から見ると見えるのであります
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