−93−81]《きやう》とを加へて文語を作つて居る」と云つて居ります。馬の頭に掛ける馬具であります。日本の文語に於ける假名遣と云ふもの、此の※[#「革+橿のつくり」、第3水準1−93−81]は決して朽《くち》て用に堪へぬ樣になつて居るのでは無い、まだ十分力のあるものだと云ふことを自分は信じて居ります。
 そこで假名遣の歴史に付きまして自分の觀察を異にして居る點を二、三申したいと思ひます。古代の假名遣、殊に延暦遷都前の假名遣に付きまして大槻、芳賀兩博士等の御論がありました。其の大意は是れは其の當時の國民普通の口語であつて、是れが此頃出來た出來たての假名で發音的に書かれたものである、國民が皆之れを用ゐて居る、丁度現状の反對である、斯う云ふ風な御論がありました。そこでさう云ふ國民全體が用ゐて居りまする假名遣に、本當の存在權があるのである、今日のやうに少數者のものになつては、最早活きて居ない、死物になつて居ると云ふ風に聽取れました。扨《さて》それから時が移つて次の期に入ります。遷都後天暦までと限りませう。是れは古事記傳に斯う云ふ境界を立てたのが初めでありませう。天暦まで即ち十世紀頃であります。此間に音便が生じて來たと云ふことは今までの御論にもありました。此の音便と云ふ者は最早是れは文語の衰替の現象である。其の事は本居あたりでも「くづれたるもの」と云ふことを云つて居ります。衰替の現象であります。併し兎《と》に角《かく》それが直に發音的に寫されて居ります。扨|是迄《これまで》の假名は國民の共有物である、此後には少數者の使ふものになつたと云ふことに多くは見られて居ります。併し斯う云ふ古い時代の假名遣が果して國民一般のものでありましたか。此問題に付いては外國の例を較べて見ますと云ふと、餘程疑ふべき餘地があるやうに思ふ。Max Mueller 等は Dialect 即ち方言と云ふ詞を斯う云ふ所に用ゐます。古代に於ては何處の國でも方言は澤山あつた。其《そ》の中《うち》或る者が勢力を得て、それが文語になると云ふと、他の方言は勢力を失ふからして、其の文語の爲に壓倒せられる。斯う云ふ風に認めて居りまするが、或は我邦の古代でも文語になつて居る言葉の外に澤山の方言があつたのではあるまいかと思ふのであります。さうして見ると假名遣は既に出來た初めから少數者の假名遣を多數者に用ゐさせるものではなかつた
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