ましたが、此點に於ては少し私は別な意見を持つて居ります。主《お》もに違ふと云ふことの論據になつて居りまするのは外國の Orthographie は廣く人民の用ゐるものである、我邦の假名遣は少數者の用ゐるものであると云ふことであります。併しさう云ふやうに假名遣が廣く行はれて居らぬと行はれて居るとの別と云ふものは、或は其の國の教育の普及の程度にも關係します。又教育の方向、どう云ふ向きに教育が向いて居るかと云ふことにも關係しますのであります。元來物の性質から言つて見れば外國の Orthographie と我が假名遣とは同一なものである、同一に考へて差支ないやうに信じます。一體假名遣を歴史的と稱するのは或る宣告を假名遣に與へるやうなものであつて私は好まない。一體假名遣を觀るには凡そ三つの方面から觀察することが出來ようと思ひます。即ち一は歴史的の方面である。一は發音的即ち Phonetik の方面である。其の外にまだ語原的即ち Etymologie から觀ると云ふ見方がございますけれども、是れは先づ歴史的と或る關係を有つて居るやうに思ひます。一國の言葉が初め口語であつたのが、文語になる時に、此の日本の假名のやうに音字を用ゐて書上げると云ふ、さう云ふ初めの場合には、無論假名遣は發音的であるには違ひない。然るに其の口語と云ふものは段々變遷して來る。一旦書いたものが其の變遷に遲れると歴史的になる。そこで歴史的と云ふことが起つて來ます。それであるから何《ど》の國の假名遣でも保守的の性質と云ふものを有つて居るのは無論である。日本のも同樣と思つて居る。さうして見れば之に對して改正の運動が起つて來ると云ふことは無論なのであります、必然の勢であります。又それを改正しようと云ふには發音的の向きに改正しようと考へるのは是れも亦必然の勢であります。此側の主張は殊に大槻博士の御説が最も明瞭に、最も純粹に私には聽取られました。假に今日發音的に新しく或る假名を定められたと考へませう。さうしたならば此の新しい假名遣が又間もなく歴史的になつてしまふのであります。語原的と申す意味を此處に説明しますると云ふと、是《こ》れは歴史的と密接の關係を有つて居ります。外の國の Orthographie に於て語原的と云ふことには一種の特殊な意味を有たせてあります。一例を以て言ひますると、國語の「すう」と云ふことは之を「す
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