なら、予は我分身と与《とも》に情死したであろう。そうして今の読者に語るものは幽霊であろう。幽霊は怨めしいと云って出るものには極《き》まって居る。もし東京に残って居る鴎外の昔の敵がこの文を読んだなら、彼等はあるいは予を以て幽霊となし、我言を以て怨しいという声となすかも知れない。しかしそれは推測を誤って居る。敵が鴎外と云う名を標的《まと》にして矢を放つ最中に、予は鴎外という名を署する事を廃《や》めた。矢は蝟毛《いもう》の如く的に立っても、予は痛いとも思わなかった。人が鴎外という影を捉《とら》えて騒いだ時も、その騒ぎの止んだ後も、形は故《もと》の如くで、我は故の我である。啻《ただ》に故の我なるのみでは無い、予はその後も学んでいて、その進歩は破鼈《はべつ》の行くが如きながらも、一日を過ぎれば一日の長を得て居る。予は私《ひそか》に信ずる。今この陬邑《すうゆう》に在って予を見るものは、必ずや怨※[#「對/心」、第4水準2−12−80]《えんたい》不平の音の我口から出ぬを知るであろう。予は心身共に健で、この新年の如く、多少の閑情雅趣を占め得たことは、かつて書生たり留学生たりし時代より以後には、ほとんど無い。我学友はあるいは台湾に往き、あるいは欧羅巴に遊ぶ途次、わざわざ門司から舟を下りて予を訪《と》うてくれる。中にはまた酔興にも東京から来て、ここに泊まって居て共に学ぶものさえある。我官僚は初の間は虚名の先ず伝ったために、あるいは小説家を以て予を待ったこともあったが、今は漸《ようや》くその非を悟ってくれたらしい。予と相交り相語る人は少いながら、一入《ひとしお》親しい。予はめさまし草を以て、相更《あいかわ》らず公衆に対しても語って居る。折々はまた名を署せずに、もしくは人の知らぬ名を署して新聞紙を借ることもある。今予に耳を借す公衆は、不思議にも柵草紙の時代に比して大差はない。予は始から多く聴者《ききて》を持っては居なかった。ただ昔と今との相違は文壇の外に居るので、新聞紙で名を弄ばれる憂が少いだけだ。荘子《そうし》に虚舟の譬《たとえ》がある。今の予は何を言っても、文壇の地位を争うものでないから、誰も怒るものは無い。彼虚舟と同じである。さればと云って、読者がもし予を以て文壇に対して耳を掩《おお》い目を閉じているものとなしたならば、それは大《おおい》に錯《あやま》って居るのであろう。予は新聞雑誌も読む。新刊書も読む。読んで独り自ら評価して居る。ただこの評価は思想を同じゅうして居ないものの評価で、天晴《あっぱれ》批評と称して打出して言挙《ことあげ》すべきものでないばかりだ。しかし筆の走りついでだから、もう一度主筆に追願《おいねがい》をして、少しくこの門外漢の評価の一端を暴露しようか。明治の聖代になってから以還《このかた》、分明に前人の迹《あと》を踏まない文章が出でたということは、後世に至っても争うものはあるまい。露伴の如きが、その作者の一人であるということも、また後人が認めるであろう。予はこれを明言すると同時に、予が恰《あたか》もこの時に逢うて、此《かく》の如き人に交ることを得た幸福を喜ぶことを明言することを辞せない。また前に挙げた紅葉等の諸家と俳諧での子規との如きは、才の長短こそあれ、その作の中には予の敬服する所のものがある。次にここに補って置きたいのは、翻訳のみに従事していた思軒と、後《おく》れて製作を出した魯庵《ろあん》とだ。漢詩和歌の擬古の裡《うち》に新機軸を出したものは姑《しばら》く言わぬ。凡《おおよ》そ此等の人々は、皆多少今の文壇の創建に先だって、生埋の運命に迫られたものだ。それは丁度雑りものの賤金属《せんきんぞく》たる鴎外が鋳潰《いつぶ》されたと同じ時であった。さて今の文壇になってからは、宙外の如き抱月の如き鏡花の如き、予はただその作のある段に多少の才思があるのを認めたばかりで、過言ながらほとんど一の完璧《かんぺき》をも見ない。新文学士の作に至っては、またまた過言ながら一の局部の妙をだに認めたことが無い。予は是《ここ》において将《まさ》に自ら予が我分身の鴎外と共に死んで、新しい時代の新しい文学を味わうことを得ないようになったかを疑わんとするに至った。然るにここに幸なるは、一事の我趣味の猶依然たることを証するに足るものがある。それは何であるか。予は我読書癖の旧に依るがために、欧羅巴の新しい作と評とを読んで居る。予は近くは独逸《ドイツ》のゲルハルト・ハウプトマンの沈鐘を読んだ。そして予はこの好処の我を動かすことが、昔前人の好著を読んだ時と違わぬことを知った。鴎外は殺されても、予は決して死んでは居ない。予は敢《あえ》て言う。希臘《ギリシャ》語に「エピゴノイ」ということがある。猶此に末流と云うがごとしだ。新文学士諸家も、これと袂《たもと》を聯《つら》ねて文壇に立っている宙外等の諸家も、「エピゴノイ」たることを免れない。今の文壇は露伴等の時代に比すれば、末流時代の文壇だというのだ。予はこの文の局を結ぶに当って、今の文壇の諸家が地方新聞を読むや否やは知らぬながら、遥《はるか》に諸家に寄語する。諸家は予などと違って、皆春秋に富んで居られるではないか。今より後に、諸家はどうぞ奮って、予が如き門外漢までを、大に動かすような作と評とを出して下さい。そうして予をしてかつて無礼にも諸君に末流の称を献じた失言を謝せしめて下さい。鴎外は甘んじて死んだ。予は決して鴎外の敵たる故を以て諸君を嫉《にく》むものではない。明治三十三年一月於小倉稿。[#地から1字上げ](明治三十三年一月)



底本:「歴史其儘と歴史離れ 森鴎外全集14」ちくま文庫、筑摩書房
   1996(平成8)年8月22日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版森鴎外全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年4月〜9月
入力:大田一
校正:noriko saito
2005年8月19日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全2ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング