て来た水兵に言つた。「猿は可哀《かはい》さうだな。やつぱりお主が処罰になつた方が面白かつたのに。」
「難有い為合《しあは》せだ」と、水兵は答へた。
 猿はとう/\有罪と極まつた。法廷の手続きは一々規則通りに遂行せられた。猿は数人の判事と辯護士とを代る代る見て何事か分からずにゐた。此分からずにゐたと云ふのは平気でゐたのではない。軍艦中で可哀がられてゐた猿の為には此見馴れない法廷がひどく窮屈であつた。猿はどんなに宥《なだ》めても落ち着いてゐることが出来なかつた。大勢の人が自分を見てゐるのが猿には辛くてならなかつた。さて愈有罪と極まつたので、刑の執行をする事になつた。どんな刑罰に処せられるかと云ふことは最初から分かつてゐた。
「とう/\銃殺か、ジヨツコオ奴。可哀さうに。」誰やらがかう云つた。
 窃盗をしたからには、銃殺せられるのは当前である。併し刑の執行は真似だけにして置かうと議決せられた。金剛石の持主は赦免の請求をしたが、この請求は銃口を猿に向けた上で採用するが好からうと云ふことになつた。
 この銃殺の真似を水兵共は楽みにして待つた。毎日同じやうにしなくてはならぬ操練に飽きてゐるので、こんなことも楽みになるのである。いよ/\その日の朝になつて、猿はブリツジへ連れて行かれた。そして銃を持つた水兵等の自分の方へ向いて来るのを見てゐた。士官一同、乗組水兵の全部が集つてゐる。
 ふびんな猿は途方に暮れた目をして一人一人の顔を見た。こんなに大勢の人に見られてゐることは今が始めである。一人の水兵が進み出て白布《しろぬの》で猿に目隠しをして遣つた。その時猿の痩せた手足は、ぶる/\震えた。猿は何か恐ろしい事が実行せられるのだと思つた。そしてそれが自分の身の上だと云ふことが分かつた。猿は銃を構へた水兵等の前に直立してゐたが、その態度は如何にも元気が無くて気の毒に見えた。一同の目は猿に注がれてゐる。或る人は稍《やゝ》感動して見てゐる。或る人は又軽く微笑みながら見てゐる。兎に角この場の模様は一種の陰鬱な見ものであつた。
「撃て」と云ふ号令が掛かると、ふびんな猿の全身は電気を掛けられたやうに震えた。此場の危険が分かつたのだらう。布で目を隠されてゐても、銃口を自分に向けられてゐることは知つてゐた。そこでその銃に弾薬が込めてあるかも知れぬと云ふことも、本能的に分かつたかも知れない。この獣も忽然「死」と云ふ暗黒な秘密を感じたかも知れない。
 猿は両手を縛られてゐた繩を引きちぎつた。頭の背後《うしろ》で結んである目隠しの布をかなぐり棄てた。そして銃を構へた水兵等や、それから士官等や、物見高い乗客や、判事などの群を見渡した。その目の中には恐怖と憤怒と努力との三つが電光の如くに閃いた。それから大胆に身を跳らして一人の士官の肩の上に飛び上がつて、次に一人の水兵の肩に移つて、非常な速度を以て舷《ふなばた》に飛び付いて、高く叫びながら海に飛び込んだ。
「やあ、海へ這入つた。猿が海へ這入つた。」かう云つて大勢が舷へ駆け寄つた。水兵の中には猿を助けに続いて海へ飛び込まうとした者もある。「ボオトを卸せ」と云ふ者もあつた。
 この騒は無駄であつた。ふびんな猿は一瞬間水面を泳いで、波と戦つてゐたが、とうとう沈んで見えなくなつた。
 M提督はこの話をしてしまつて云つた。「言ふまでもなく、それから先の航海はなんとなく物悲しかつたのですよ。こんな事を言つたら、あなたは笑ふでせうが、猿が溺れてからは、艦内で笑声はしなくなりました。丁度親類か友達の死んだ時のやうに、何物を見るに付けても、ふびんなジヨツコオの事が思ひ出されてならなかつたのです。」



底本:「鴎外選集 第十四巻」岩波書店
   1979(昭和54)年12月19日
初出:「新日本 三ノ三」
   1913(大正2)年3月1日
入力:tatsuki
校正:浅原庸子
2001年9月15日公開
2006年4月29日修正
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