こやか》なものが一人も無かつた。門人塩田|良三《りやうさん》は肌熱《きねつ》頭痛を覚えつつも、単身|※[#「歹+僉」、第4水準2−78−2]葬《れんさう》の事に当り、強ひて紋服に十徳を襲ねて柩の後に随つた。さて送つて長谷寺《ちやうこくじ》に至つて、日暮にお玉が池に還つた。良三は此時疲労の甚しきを覚えたので、纔に十徳を脱ぎ畢《をは》り、未だ紋服を脱ぐに及ばずして僵《たふ》れ臥した。

     その三百十二

 わたくしは文久壬戌七月七日に柏軒の長女洲が流行の麻疹に罹つて死んだことを記し、葬《とぶらひ》を送つて帰つた塩田良三が紋服を脱ぎ更《か》ふるに及ばずして僵れ臥したと云つた。
 良三は人事を省せざること幾時なるを知らなかつた。ふと醒覚したときは、もう更闌《かうた》けてゐるらしかつた。隣室に人の語る声がする。諦聴すれば主人柏軒と父楊庵とである。
「何分|難証《なんしよう》で困つたものです」と柏軒が云ふ。
「下剤を用ゐて見てはいかがでせう。」これは父が危《あやぶ》みつつ問ふのであつた。
「いや。下剤は好いが、たつた此間湿毒を下すと云つて用ゐた迹で、まだ体が回復してゐないから、此上用ゐるわけには行きますまい。」柏軒は父の議を納れなかつた。
 少焉《しばらく》して父は辞して帰つた。間もなく僕《しもべ》が煎薬を茶碗に注いで持つて来た。此時良三は苦悶に堪へぬので、危険を冒して下剤を服せむことを欲した。そこで僕に別に一碗の熱湯を持ち来れと命じ、自ら起つて調合所に往き、大黄《だいわう》一撮《ひとつまみ》を取り来つて熱湯中に投じ、頓服して臥した。既にして上※[#「囗<倩のつくり」、第3水準1−15−33]《しやうせい》両度であつた。再び上《のぼ》つた比《ころほひ》には、もはや起行することが出来ぬので、蒲伏《ほふく》して往反《わうへん》した。そして昏々として睡つた。
 再び覚めて見れば、燈火が滅してゐた。しかし良三は自ら双臂胸腹《さうひきようふく》を摩して、粟粒大《ぞくりふだい》の物が膚《はだへ》に満ちてゐるのを知つた。夜が明けた。良三は紅疹の簇《むらが》り発したのを見て喜に耐へず、大声に「先生」と叫んだ。
 柏軒は寝衣《ねまき》の儘で来て見た。そして良三の大黄を服したことを聞き、一面にはその奇功を奏したのを歓び、一面には将来のために軽挙を戒めた。
 十一月二十三日に、棠軒は全安の女梅を養女として、岡西養玄に嫁することを許された。翌月二十一日に上原全八郎が媒妁して梅を岡西氏に送つた。棠軒公私略にかう云つてある。「十一月廿三日、厄介女梅事、此度自分養女に致し、岡西養玄え縁談、願之通被仰付。」「同月(十二月)廿一日、梅女岡西へ嫁入整婚儀、上原全八郎媒人、里開舅入同日也。」
 梅は世に希《まれ》なる美人であつた。幼《いとけな》くして加賀中納言|斉泰《なりやす》の奥に仕へたが程なく黜《しりぞ》けられた。某《それがし》と私通したからである。梅は暫くお玉が池の柏軒の許に潜んでゐて、此に至つて養玄に嫁した。年|甫《はじめ》て十三であつた。
 養玄は後の岡寛斎である。才学はあつたが、痘痕《とうこん》のために容《かたち》を毀《やぶ》られ、婦を獲ることが難かつた。それゆゑ忍んで行《おこなひ》なき梅を娶《めと》つたのださうである。
 棠軒は此年福山に徙《うつ》ることを命ぜられ、次年に至つて徙つた。伊沢分家は丸山阿部邸内の蘭軒の旧宅を棄てて去ることになつたのである。公私略に「十二月四日、来春早々福山表引越被仰付」と云つてある。
 伊沢本家では此年|閏《じゆん》八月十八日に信全が八十一歳で歿した。当主は二十八歳の道盛信崇《だうせいしんそう》であつた。

     その三百十三

 此年壬戌に福山藩の小島氏で成斎知足《せいさいちそく》が歿した。継嗣は第二子|信之《しんし》である。成斎の墓表は二あつて、一は海保漁村が撰び、一は関藤藤陰《せきとうとういん》が撰んだ。駒籠長元寺中の石に刻まれてゐて、世人の普《あま》ねく知る所のものは前者である。歿日は十月十八日、年は六十七、病の「風※[#「やまいだれ+(鼾−自−干)」、第4水準2−81−55]」であつたことは漁村の文に見えてゐる。二子三女があつて、長子は夭した。
 此年棠軒二十九、妻柏二十八、子棠助四つ、女長九つ、良七つ、全安の女梅十三、柏軒五十三、子鉄三郎十四、平三郎二つ、女国十九、安十一、琴八つ、妾春三十八、榛軒未亡人志保六十三であつた。
 文久三年は蘭軒歿後第三十四年である。正月二十日将軍徳川家茂は柏軒に上洛の供を命じた。家茂は前年壬戌八月の召に応じて往くのである。
 此時柏軒は端《はし》なく一の難関に逢著した。それは所謂柏軒の乗船問題である。松田氏は此間の消息を語つて下《しも》の如く云つてゐる。
「柏軒先生は多紀|※[#
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