一事に徴しても明である。
 相覧の号を古※[#「山+壽」、第4水準2−8−71]《こたう》と云つたことは、既に云つた如く、荏薇《じんび》問答に見えてゐる。世に行はれてゐる画人伝の類には此人の名を載せない。只|海内偉帖《かいだいゐてふ》に「村片相覧、画、福山藩、丸山邸中」と云つてあるのみである。
 相覧の子を周覧《ちかみ》と云つた。父は子を教ふるに意を用ゐなかつた。周覧は狭斜に出入し、悪疾に染まつて聾《みゝしひ》になり、終に父に疎《うと》んぜられた。榛軒は為に師を択んで従学せしめ、家業を襲ぐことを得しめた。曾能子刀自は家に周覧の画いた屏風のあつたことを記憶してゐる。意匠を河東節の歌曲「小袖模様」に取つたものであつた。わたくしの福田氏に借りた明治二年の「席順」に「第五等格、村片市蔵、三十九」と「第七等席、村片平蔵、廿六」とがある。榛軒の歿した嘉永五年には、天保二年生の市蔵が二十二歳、弘化元年生の平蔵が九歳であつた。周覧の子ではなからうか。初に少時の失行を云云して、後に其人の後の誰なるを推窮するは憚るべきが如くであるが、周覧の能く過を改め身を立てた人なるを思へば、必ずしも忌むべきではなからうか。
 魚屋与助は伊沢氏に出入した魚商である。女《むすめ》が三人あつて、名を松《まつ》菊《きく》京《きやう》と云つた。与助の妻は酒を被《かうぶ》つて大言する癖があつて、「女が三人あるから、一人五百両と積つても千五百両がものはある」と云つた。松は榛軒の妻志保に事《つか》へて、柏《かえ》の師匠の許に通ふ供をした。後日本橋甚左衛門町の料理店百|尺《せき》の女中になつて、金を貯へた。京は常磐津の上手で、後小料理屋を出した。此二人は美人であつた。菊は目疾のために容《かたち》を損ひ、京の家に厄介になつた。力士岩木川の京に生ませた子が、後の横綱小錦|八十吉《やそきち》である。
 初代|善好《ぜんかう》は榛軒に愛せられて、伊沢氏の宴席に招かれ、手品などを演じた。「日蓮の故迹に名ある石禾《いさは》ゆゑ出す薬さへ妙に利くなり」と云ふ狂歌を詠んだことがある。幇間を罷めて後、鍋屋横町に待合茶屋を出した。当時赤城横町は日蓮に賽するもののために賑ひ、鍋屋横町は人行が稀であつた。善好は客が少いので困窮し、榛軒の救助を得て存活したさうである。わたくしは幇間の歴史を詳にせぬが、初代善好とは所謂桜川善好であらうか。桜川善好は甚好の弟子、甚好は慈悲成《じひなり》の弟子だと云ふ。当時の狭斜の事蹟に精《くは》しい人の教を待つ。
 榛軒の友人知人の事は此に終る。次にわたくしは榛軒の門人の事を記さうとおもふ。榛軒門人録には四十五人の名が載せてある。しかし今其行状を詳にすべきものは甚だ少い。わたくしは已むことを得ずして、只|偶《たま/\》曾能子刀自の話頭に上つたものを叙列することとする。
 榛軒は門人を待つこと頗《すこぶる》厚かつた。曾能子刀自はかう云ふことを記憶してゐる。或日榛軒は塾生の食器の汚れてゐたのを見て妻に謂つた。「女中に善く言つて聞せて、もつと膳椀を綺麗に滌《あら》はせるやうにせい。諸生も内へ帰れば、皆立派な檀那だからな。」

     その二百七十四

 わたくしは榛軒の門人の事を書き続ぐ。門人中には往々十一二歳より十五六歳に至る少年があつた。清川安策、柴田常庵、三好泰令、雨宮良通《あめのみやりやうつう》、島村周庵、前田|安貞《あんてい》、高井元養等が即是である。
 丸山の家の後園には梅林があつた。梅が子《み》を結ぶ毎に、少年等はこれを摘み取り、相擲《あひなげう》つて戯《たはむれ》とした。当時未だ曾て梅子《ばいし》の黄なるを見るに及ばなかつたのである。既にして榛軒が歿し、弟子が散じた。伊沢氏では年毎に後園の梅を※[#「酉+奄」、第3水準1−92−87]蔵《えんざう》して四斗樽二つを得た。
 榛軒は少年弟子のために明《あけ》卯の刻に書を講じた。冬に至ると、弟子中虚弱なるものは寒を怯れた。そしてこれを伊沢氏の寒稽古と謂つた。
 清川安策|孫《そん》は豊後国岡の城主中川氏の医官清川玄道|※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1−84−59]《がい》の次男であつた。玄道は蘭門の一人で、其長男が徴《ちよう》、次男が孫である。
 伝ふる所に従へば、父玄道は人となつて後久しく志を得ずに、某街の裏店《うらだな》に住んでゐた。家に兄弟十八人があつて、貧困甚だしかつた。しかし玄道は高く自ら標置して、士人の家には門がなくてはならぬと云ひ、裏店の入口に小い門を建てた。又歳旦には礼服がなくてはならぬと云つて、柳原の古著屋で紋服を買つて著た。
 未だ幾《いくばく》ならぬに玄道は立身した。その目見医師の班に加はつたのは年月を詳にせぬが、躋寿館の講師に任ぜられたのは天保十四年十一月十六日である。即ち榛軒と年を同じ
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