かつたかも知れない。
榛軒の家には、月六斎に塾生のために開く講筵があつた。渡辺|魯輔《ろすけ》を請じて経書を講ぜしめ、井口栄達を請じて本草を講ぜしめたのである。渡辺氏、名は魯、一の名は正風《せいふう》、樵山《せうざん》と号した。松崎|慊堂《かうだう》の門人である。当時麻布六本木に住んでゐた。明治六年に五十三歳を以て歿したと云ふより推せば、榛軒の歿した嘉永壬子には三十二歳であつた。井口は扇橋《あふぎばし》岡部藩の医官であつたと云ふ。わたくしは此人の事を詳にせぬが、日本博物学年表嘉永二年の条に下《しも》の記事がある。「泉州岸和田侯小野蘭山の本草綱目啓蒙に図なきを慨し、侍医井口三楽に命じて図譜を編輯せしめ、本草綱目啓蒙図譜山草部四巻を刻す。」按ずるに栄達は此三楽であらう。然らば岡部藩とは武蔵岡部の安部氏の藩ではなくて、和泉岸和田の岡部氏の藩であらう。武鑑を検するに、岡部氏の上屋敷は山王隣、中屋敷は霞関、下屋敷は渋谷である。扇橋は恐くは葵橋《あふひばし》の誤であらう。扇橋は当時の町鑑《まちかゞみ》を検するに、現在の深川扇橋を除く外、一も載せてないからである。
渡辺の経義は塾生等が喜んで聴いたが、井口の本草はさうでなかつた。井口は老人で、説く所の事も道理を推論するのでなく、物類を列叙するのであつたから、塾生等は倦んで坐睡することがあつた。或時井口は其不敬を難詰して、講を終へずして席を起つた。塾生等は驚き謝して纔《わづか》に井口の怒を解くことを得た。
榛軒は毎旦|女《ぢよ》柏《かえ》のために古今集を講じた。又柏に画を学ばせた。是は躋寿館に往く日毎に、柏をして轎《かご》に同乗せしめ、館に至つて轎を下る時、柏を轎の中に遺し、画師の家に舁き往かしめたのである。画師はなほ※[#変体仮名え、8巻−138−上−4]ぶんめいと云ふ人で、旗本の次男であつたと云ふ。わたくしは天保以後の画家中に就いて此名を討《たづ》ねたが見当らなかつた。又旗本中に就いて其氏を求めたが得なかつた。只古い分限帳に直井氏の二家がある。其邸は一は「御浜之内」、一は「湯島天神下」である。皆三四十俵取の家である。画家ぶんめいは或は直井氏ではなからうか。
その二百七十
榛軒の逸事は此より医業に関する事に入る。榛軒は流行医で、四枚肩の轎《かご》を飛ばして病家を歴訪した。其轎が当時の流行歌《はやりうた》にさへ歌はれたことは既に上《かみ》に記した。
榛軒は初め轎丁《かごかき》四人と草履取二人とを抱へてゐた。しかし阿部邸内の仲間等が屡《しば/″\》喧嘩して、累を主人に及ぼすことが多かつたので、榛軒は抱の数を減じてこれを避けようとした。そこで草履取のみを留めて、轎丁は総て駕籠屋忠兵衛と云ふものに請負はせることとした。
曾能子刀自の記憶してゐる仲間の話がある。某《それ》の年の暮の事であつた。伊沢氏では餅搗をした翌日近火に遭つた。知人《しるひと》が多く駆け附けた中に、数日前に暇《いとま》を遣つた仲間が一人交つてゐた。火は幸に伊沢の家を延焼するに及ばなかつた。其次の日に仲間の請宿の主人《あるじ》が礼を言ひに来た。「昨日はお餅を沢山頂戴いたして難有うございます。手前共ではまだ手廻り兼ねて搗かずにゐましたので、大勢の子供が大喜をいたしました」と云つたのである。榛軒が餅を調べて見させると、まだ切らずに置いた熨餅《のしもち》が足らなかつた。逐はれた仲間が背中に入れて還つたのであつた。
榛軒は病家を択んで治を施した。富貴の家は努めて避け、貧賤の家には好んで近づいた。毎《つね》に「大名と札差の療治はせぬ事だ」と云つた。しかし榛軒が避けむと欲して避くることを得ずに出入した大名の家は、彼の輓詩を寄せた棚倉侯の外に数多《すうた》あつたことは勿論である。又札差を嫌つたのは、札差に豪奢の家が多かつたからである。因《ちなみ》に云ふ。旗本伊沢氏の如きは榛軒がためには宗族であつた。所謂「総本家」であつた。しかし榛軒は絶て往訪せずにしまつた。
俳優は当時病家として特別の地位を占めてゐた。俳優は河原者として賤者である。目見以上の官医は公にこれをみまふことを得ない。然れども医にして技を售《う》らむことを欲するものは皆俳優の家に趨つた。
榛軒は例として俳優の請には応ぜなかつた。「立派な腕のある医者が幾らもあつて見に往つて遣るのだから、何も己が往くには及ばない」と云つてゐた。只市川団十郎父子の病んだ時だけは此例に依らなかつた。団十郎は即七代目と八代目とである。七代目団十郎は人格も卑しからず、多少文字をも識つてゐて、榛軒は友として遇してゐたので、其継嗣にも親近したのである。
榛軒は市川の家を訪ふに、先づ轎《かご》に乗つて堀田原《ほつたはら》に住んでゐる門人坂上玄丈の家に往き、そこより徒歩して市川の家に至つた。
前へ
次へ
全284ページ中207ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング