妻俊三十六、女洲五つ、国二つ、蘭軒の女長三十二、蘭軒の姉正宗院七十五であつた。
弘化三年は蘭軒歿後第十七年である。此丙午の歳には伊沢氏に事の記すべきものが無い。只曾能子刀自がわたくしにかう云ふ事を語つた。「十一か十二になつた頃の事でございました。わたくしは丸山の宅の縁におもちやを出して遊んでゐて、どうかしてそれを置いたまゝ奥にはいりますと、跡へ内弟子の中の若い人達が出て来て、わたくしのおもちやを持つて遊びます。その賑やかな声を聞いて、わたくしが縁に出ますと、弟子達は皆逃げてしまひます。わたくしは本意《ほい》なく思つて、或時父に愬《うつた》へました。すると父はかう申しました。それは、お前、喜ばなくてはならない事だ、柏《かえ》ちやんのやうな小い子を、門人が師匠の子として敬つて、遠慮して引き下るのだ。お前はいつまでも今のやうに、門人に遠慮をさせて育たなくてはならないと申しました。」
此年榛軒四十三、妻志保四十七、女柏十二、柏軒及妻俊三十七、女洲六つ、国三つ、其他長は三十三、正宗院は七十六であつた。
その二百五十二
弘化四年は蘭軒歿後第十八年である。榛軒詩存に「丁未早春途上詠所見」の七絶と、「丁未上元後一日、次豆日小集韻、兼似柏軒」の五律とがある。今其|辞《ことば》を略す。
六七月の交《かう》に榛軒は暇を賜つて函嶺《はこね》に遊んだ。徳《めぐむ》さんの蔵する所の「湘陽紀行」一巻がある。其書には年号もなく干支もないが、渋江保さんが此年の著だと云ふことを鑑定した。何故と云ふに、書中に須川隆白《すがはりうはく》の齢《よはひ》を二十歳としてある。須川は保の兄|恒善《つねよし》よりは少《わか》きこと二歳であつた。其二十歳は丁未の歳となるのである。前《さき》にわたくしは蘭軒の長崎紀行の全文を載せたが、榛軒の此紀行は要を摘むに止める。彼は蘭軒の手定本であつたために割愛するに忍びなかつたが、此は草々筆を走らせて辞に詮次《せんじ》なく、且首尾全からぬために字句をいたはることを要せぬのである。
六月「廿四日、晴、暑甚し。暁六時細君|柏児《はくじ》を伴ひ、須川隆白二十歳、田中屋忠兵衛、僕吉蔵をしたがへ出立す。(中略。)中橋にて小憩し、(中略、)日野屋に立寄、(中略、)本芝にて肩輿を倩《やと》ひ、柏児と交互に乗る。(中略。)佐美津《さみづ》川崎屋にて昼食、酒旨魚鮮、風光朗敞、風涼最多。(中略。)鈴森《すゞがもり》にて少息す。炎熱|可※[#「火+共」、第3水準1−87−42]《あぶるべし》。六郷を渡り、(中略、)生麦にて鮓を食し酒を飲む。家は左側(なり。)加奈川宿奈古屋に投宿す。妓四人来終夜喧噪す。婢徳の妓と同枕(せむこと)を抽斎に強ふる事(あり、)絶倒す。」括弧内の文字は読み易からしめむがために、わたくしが加へた。「中橋」は柏軒の家である。佐美津は鮫津である。曾能子刀自の言《こと》に従へば、奈古屋に舎《やど》つた此夜、妓を畏れて遁れ避けたものは、渋江抽斎、山田|椿町《ちんてい》、須川隆白の三人であつた。此中須川は年|甫《はじめ》て二十であつたから、羞恥のために独臥したのであらう。抽斎と椿庭とは平生謹厳を以て門人等に憚られてゐたのださうである。
「廿五日、陰晴|相半《あひなかばす》。(中略。)柏軒、二陶、天宇《てんう》と別る。」弟柏軒、石川二陶、天宇の三人は送つて此に至り、始て別れ去つたのである。天宇は渋江保さんの言《こと》に拠るに、抽斎の別号ださうである。「程谷駅中より左に折れ、金沢道にかかる。肩輿二を倩ひ、三里半の山路屈曲高低を経歴す。左右|瞿麦《なでしこ》百合の二花紅白粧点す。能見堂眺望不待言。樹陰涼爽可愛。立夫《りつふ》の教にて、町屋村入口にて初て柳を見る。相州中人家柳を栽るを忌む。自《おのづから》土地に少しと云ふ。」立夫は枳園の字《あざな》である。阿部家を逐はれて、当時尚相模国に住んでゐた。推するに微行して江戸に入り、榛軒の案内者として此に来てゐるのであらう。「瀬戸橋畔|東屋《あづまや》酒楼にて飲す。(中略。)楼上風涼如水。微雨|偶《たま/\》来り、風光|頓《とんに》変り、水墨の画のごとし。隆白小柴の伯父を訪ふ。待つ間に一睡す。隆白帰。雨亦晴。又出て日荷《につか》上人を拝し、朝比奈切通の上にて憩ひ、崖間の清泉を掬し飲む。此辺|野葛《のくず》多し。枝柄《えから》天神祠前を過ぐ。日欲暮、疲倦甚しく、(往いて詣ること能はざるが故に)遙拝す。雪下大沢専助旅店に投宿す。終夜|濤声《たうせいあり》。不得眠。」一行は既に鎌倉に入つたのである。枝柄天神は荏柄天神に作るべきである。前日の記中よりわたくしの省略したのは、遠近種々の地まで送つて来た人名等であつたが、此日の記に至つては、駕籠賃がある。又酒店東屋の献立が頗る細かに書いてある。悉く写し出
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