を記述しようとおもふ。即ち未だ曾て公にせられたことのない京水実伝である。
その二百三十三
駿河台の池田瑞仙の邸を辞し去つた京水瑞英には帰るべき家が無かつた。其自記に拠るに、瑞英は「神田明神下金沢町の裏店に僑居」した。前後の状況より推すに、瑞英は町医者として此に開業したらしい。其人は十六歳の青年である。其家は裏店《うらだな》である。わたくしはその自信の厚かつたに驚かざることを得ない。
翌享和二年に「弟子始て従ひ、始て本庄近江守殿男子を診」した。瑞英の業は約一年にして緒に就いた。是が「病弱不能継業」と云はれた人である。弟子は其学識を信じて来附し、病家は其技術を信じて請待した。驚かざらむと欲しても得られぬのである。武鑑を検するに本庄近江守は「御詰並、一万石、小川町」と云つてある。時に瑞英は十七歳であつた。
「同三年阿部主計頭殿、後備中守嫡子運之助殿を診ひ、主計頭に謁す。此善直諸侯に見の始なり。」阿部|主計頭《かぞへのかみ》は即ち棕軒侯|正精《まさきよ》である。当時父伊勢守|正倫《まさとも》が詰衆、正精は詰並《つめなみ》で、本庄とは同僚であつた。邸宅も亦同じ小川町にあつた。瑞英は本庄の子を治して功があつたので、棕軒も亦其子のためにこれを邀《むか》へたのではなからうか。運之助は寛政八年に真野竹亭が易の「純粋精也」より取つて正粋《まさたゞ》の名を献じた棕軒の嫡男である。正倫、正精、正粋の三人は相踵《あひつ》いで運之助と称した。京水の自記中「診」の字は「みまふ」と訓ませたのであらう。瑞英十八歳の時の事である。
「文化元年武州浦和伊勢屋清蔵の家に寓す。」是も亦技を售《う》らむがための旅であつただらう。瑞英此年十九歳であつた。
「同二年江戸に帰り、同八月甲州に入、弟子三十六人従ふ。」瑞英の声望は破竹の勢を以て長じた。此年二十歳であつた。
「同六年同国石和に於て同所小林総右衛門の女を妻とす。」甲斐国|石和《いさわ》の小林氏の女《ぢよ》は名を常と云つた。当時瑞英二十四歳、常は寛政六年生で十六歳であつた。
「同七年長男雄太郎を生。」参正池田家譜に云く。「文化七年七月十六日、生於甲州石和小林総右衛門家。」又云く。「雄次と名を善郷より賜るを以て、行々雄を名と為ものなり。」錦橋瑞仙が名を雄次と命じ、後其雄の字を取つて雄太郎と云つたのであらう。是に由つて観れば、伯母沢は瑞英を悪んでも、伯父瑞仙は姪《てつ》瑞英との交を絶たずにゐて、名を従孫《じゆうそん》に命じたと見える。雄太郎は後の瑞長直頼《ずゐちやうなほより》である。此年瑞英二十五歳。
「同八年帰于江戸。再神田岩井町代地に僑居す。」瑞英は文化八年二十六歳にして、妻常と長男雄太郎とを率《ゐ》て江戸に還つた。此文の「再」の字の上には、或は「同九年」の三字を脱してゐるかも知れない。家を岩井町代地に移したのは、八年でなくて九年であつたかも知れない。何故と云ふに、自記には此|下《しも》に直に「盤次郎生」と書してある。次男盤次郎の生れたのは文化九年で、此人は後斎藤氏を冒し、天保五年に二十三歳を以て終つた。「同九年」の三字は若し「再」の字の上に脱してゐぬならば、「僑居す」の下《しも》に脱してゐなくてはならぬのである。
その二百三十四
わたくしは京水池田瑞英の事蹟を、其自記に拠つて続抄する。文化九年には瑞英の次男盤次郎が神田岩井町代地の家に生れた。生日は「七月卅日」である。「盤次郎の名は杉本仲温の贈る所なり」と云つてある。是は錦橋初代瑞仙の墓表を撰んだ杉本である。杉本は霧渓二世瑞仙を識つてゐて、これがために錦橋の墓表を撰び、又瑞英を識つてゐて、其次男に命名した。瑞英は二世瑞仙と善くなかつた形迹があるが、杉本は其間に立つて、瑞英に好意を表してゐたらしい。
わたくしは此関係を証するに足る一の奇なる事実を発見したやうにおもふ。杉本は既に云つた如く、霧渓撰の行状に本づいて錦橋の墓表を作つた。そして錦橋の事蹟には、行状と墓表との間に一も相殊なることが無い。独り文中瑞英|善直《よしなほ》を出すに至つて、杉本は行状に無き所の一句を插入した。行状には「男曰善直、多病不能継業」と云つてある。墓表には「先生有子善直、才敏而好学、多病而不能継其業、以其門人直卿為嗣」と云つてある。杉本は己の意志よりして「才敏而好学」の句を添へたのである。わたくしは初め墓表を読んだ時、此句に躓いて歩を駐《とゞ》めた。そして霧渓の嘱を受けて撰文した杉本が、何故に此句を添へたかを疑つた。今にして思へば、瑞英と親善にして其子に命名する杉本は、此句を著けざることを得なかつたのであらう。杉本が既に此句を著けたとき、霧渓も此の公平なる回護に対して、敢て抗議をなさなかつたのであらう。
盤次郎の生れた時、瑞英は二十七歳であつた。
「同(文化)
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