私儀新規被召出候に付、京都に罷在候家内之者共、此度呼下度候段奉願候処、早速願之通堀田摂津守殿被仰渡候。同八月六日当著仕候。悴杏春儀は其節病気に付、快気次第と被仰付候。同年十一月四日当著仕候。」所謂「家内之者共」とは名を斥《さ》さゞる人と杏春《きやうしゆん》とで、名を斥さゞる人は八月六日に先づ至り、杏春は十一月四日に後れて至つた。杏春は祐二である。京水は「善郷(中略)実子の届に言上するに及て杏春と称す」と自記してゐる。名を斥さゞる人は即ち佐井氏、実は菱谷氏《ひしたにうぢ》沢《さは》である。沢は瑞仙の三人目の妻である。「当著」は初めわたくしは当地著の脱文かと以為《おも》つたが、その重出するを見るに、到著の誤であらう。
その二百三十
池田瑞仙は自己が寛政九年正月十三日に江戸に著き、妻沢が八月六日に、養子杏春が十一月四日に継《つ》いで至つた。
瑞仙が三人目の妻沢を娶《めと》つたのは何時であつたか知らぬが、其二人目の妻寿慶が寛政二年に死んだ後、三年に大坂より京都に徙《うつ》つた時には、京水の記に「女於千代を従え」と云つてある如く、妻は無かつた。此より後九年に至る間に瑞仙は沢を娶つた。猶細に考へて見るに、此婚姻は油小路の家に於てせられたのでもなく、間之町《あひのまち》の家に於てせられたのでもなく、長女千代が死してより後時を経て、東洞院の家に於てせられたのではなからうか。
又養子祐二の名が杏春と改められたのも、月日を明にせぬが、京水の自記に拠るに、父瑞仙が江戸に於て実子として届け出でた時であつたらしい。即ち入府後であつたらしい。
此推定にして誤らぬならば、瑞仙の三人目の妻沢は寛政七年若くは八年に、養子祐二のゐる処へ迎へられたのである。沢は三十一歳若くは三十二歳で、祐二は十歳若くは十一歳であつた。次で瑞仙が召されて江戸に来り、沢と祐二改杏春とを迎へ取つた。是が瑞仙六十二、沢三十三、杏春十二の時である。
瑞仙が六十二歳を以て江戸に召された時、弟玄俊は六十歳を以て京都に居残り、幾《いくばく》もあらぬに死んだ。京水の記にはかう云つてある。「寛政九年善郷江戸に至るの故を以て、帯刀免許の命を蒙り、町年寄を兼ることを辞して後、東洞院の善郷が居宅に移り、同年八月二日死、宗仙寺に葬る、法名隣山粛徳信士。」
是に由て観るに、玄俊信郷は兄瑞仙善郷が寛政九年三月五日に幕府の医官となつた後、帯刀を允《ゆる》され、御池通車屋町の年寄役を辞し、東洞院なる兄の旧宅に移り、八月二日に死んだのである。
玄俊の京都に客死したのは、兄瑞仙に別れた後である。しかしわたくしの推測する所を以てすれば、実子祐二改杏春は猶未だ京都を離れなかつたであらう。仮に杏春が江戸に至るに、養父瑞仙と同じ日子を費したものとする。瑞仙は正月二日に発程して十三日に入府した。其間十一日である。今杏春の江戸に至つた十一月四日より溯ること十一日なるときは、丁巳の十月は大なるが故に、十月二十三日となる。此日は、丁巳の八月は大、九月は小なるが故に、生父玄俊の死後八十日を過した時である。想ふに杏春は生父の病を瞻《み》、其|葬《とぶらひ》を送り、故旧の援助を得て後事を営み、而る後京都を離れたことであらう。
瑞仙は其書上に、養子杏春の妻沢より遅れた原因を杏春の病に帰してゐる。「悴杏春儀は其節病気に付快気次第と被仰付候。」穉《をさな》い杏春は果して病んでゐたか。或はその病んでゐたものは杏春にあらずして、生父玄俊であつたか。
その二百三十一
寛政九年に江戸に来て、冬に至るまでに家族を京都から呼び迎へた池田瑞仙は、初め暫く市中に住んで、次で居を駿河台に卜し、翌十年二月六日には奥詰医師に陞《のぼ》せられた。瑞仙の家は此の如く栄達の途を進んで行つて、余所目《よそめ》には平穏事なきが如くに見えてゐた。
しかし其裏面には幾多の葛藤があつたものと看なくてはならない。わたくしは後《のち》よりして前を顧み、果《くわ》よりして因を推し、錦橋瑞仙の妻《さい》沢《さは》を信任することが稍過ぎてゐたのではないかと疑ふ。其家に出入《いでいり》する佐々木文仲と云ふものをして、余りに深く内事に干渉するに至らしめたのではないかと疑ふ。佐々木は恐くは洋人の所謂「家庭の友」に類した地位を占むるに至つたのであらう。そして佐々木と沢との関係は、遂に養子杏春をしてこれが犠牲たらしめたのであらう。
わたくしは嘗て杏春即京水が、霧渓撰の錦橋行状に於ても、富士川氏の写した京水墓誌の一段に於ても、虚弱者としてとりあつかはれてをり、又文中読者をしてその無学無能を想はしめむとするが如き語気あるを見て、此間に或秘密が伏蔵してゐはせぬかと疑つた。今やわたくしは京水自筆の巻物を閲《けみ》することを得て、此間の消息を明にした。駿河台の池田
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