池田京水自筆の巻物の事を叙して、わたくしは池田氏系図の三本が其中に収めてあると云つた。しかし巻物の内容中尊重すべきものは、独り系図のみではない。
 第一に初代瑞仙の伝がある。是は寛政庚申の書上《かきあげ》で、極て杜撰なものではあるが、京水の校註あるが故に尊い。第二に京水自家の履歴がある。苟《いやし》くも京水を知らむと欲するものは、此に由らざることを得ない。第三に系図錦橋本の書後《しよご》がある。是は数行の文ではあるが、一読人をして震慄せしむべきものがある。第四に系図水津本の序記がある。若し紙背に徹する眼光を以て読むときは、其中に一箇の薄命なる女子の生涯が髣髴として現れるであらう。此女子の運命は実に小説よりも奇である。
 わたくしは初め二世池田全安さんの手より此巻物を受けて披閲した時、京水の轗軻不遇の境界をおもひ遣つて、嗟歎すること良《やゝ》久しかつた。わたくしは借留数月にして、全文を手抄した。
 記事は此より巻物の梗概に入る。梗概は原本の次第に拘らずに、年月を逐うて記する。錦橋の祖先の事は努めて省略し、錦橋の事も亦これに準じ、京水の事に至つて稍《やゝ》詳叙する積である。
 系図は京水本に従へば生田頼宗から起つてゐる。天児屋根命《あめのこやねのみこと》二十二世の孫が藤原鎌足で、鎌足十四世の孫が忠実《たゞざね》である。忠実の子が悪左府頼長、頼長の子が兼長、兼長の子が生田頼宗である。
 頼宗は蒲冠者範頼《かばのくわんじやのりより》に仕へた。頼宗の女《ぢよ》は範頼の子頼信を生んだ。頼宗はこれを養つて嗣となした。嫡孫承祖である。錦橋本は此頼信より起つてゐる。此故に生田氏は京水本に従へば藤原氏となり、錦橋本に従へば清和源氏となるのである。しかし此遠祖の事は、わたくしはこれを批評の範囲外に置く。
 頼信十六世の孫が嵩山正直《すうざんまさなほ》である。此世数は京水本に従つて記し、復た諸本の異同を問はない。亦わたくしの評することを敢てせぬ所だからである。
 嵩山正直は始て池田氏を称した。明人《みんひと》戴笠《たいりつ》の痘科《とうくわ》を伝へたと称するものは此嵩山である。此授受の年月には疑がある。嵩山は戴笠が岩国に淹留してゐた時、其治法を伝へたと云ふ。然るに戴笠の岩国に来たのは、僧となつて独立《どくりふ》と号した後で、寛文中の事となるらしい。嵩山の歿年万治二年と云ふに契《かな》はない。戴笠は或は万治元年に江戸に来た前に、既に一たび岩国に往つたであらうか。京水は疑を存してゐる。
 嵩山正直の子は正俊《まさとし》、正俊の子は杏仙正明《きやうせんまさあき》、正明の子は即ち錦橋である。是は京水本に従つたもので、錦橋本は正俊を脱してゐる。

     その二百二十三

 わたくしは池田京水の祖先を説いて鼻祖より京水の養父錦橋に至つた。其間に生じた所の旁系は一々挙ぐることを要せない。しかし彼系図|水津《すゐづ》本と溝挾《みぞはさ》本との来歴を明にせむがために、此に水津溝挾両家の事を略記する。
 生田氏の始祖頼宗の子が頼信で、頼信の子が頼氏である。頼氏の弟に信吉と云ふものがあつて、水津重時の家を継《つ》いだ。生田氏の支流に水津氏あることは此に始まる。降つて嵩山正直の父信重は、実は信吉十二世の孫水津信道の子であつた。次に正直の弟を杏朴成俊《きやうぼくなりとし》と云ひ、これが信道五世の孫|光《ひかる》の養子となつて水津氏に復《かへ》り、成俊の子に成豊《なりとよ》、正俊があつて、兄成豊は水津氏を継ぎ、弟正俊が又養はれて嵩山の子となつたのである。成豊の孫を水津官蔵と云ふ。系図水津本を有してゐたのは此官蔵の女《ぢよ》である。是が旁系水津氏である。
 次に溝挾氏は嵩山正直の妹、成俊の姉が往いて嫁した。是は京水本の記する所である。これに反して溝挾本に従へば、此女は正直の妹にあらずして成俊の子成豊の妹である。此女の所出が溝挾氏を嗣いでゐる。是は旁系溝挾氏である。
 わたくしは此より京水自筆の巻物に拠つて、初代瑞仙の事蹟を覆検する。しかし巻物の収むる所の錦橋瑞仙寛政庚申の書上《かきあげ》は、極て杜撰なる文書である。わたくしは曾て再び京水を語つた時、錦橋の養子二世瑞仙|直卿《ちよくけい》の実子三世瑞仙|直温《ちよくをん》の先祖書を引き、此先祖書中錦橋の条は錦橋自己の書上を用ゐたものであらうと云つた。わたくしの此推定は誤らなかつた。しかし錦橋書上と直温先祖書の錦橋の条とは、広略《くわうりやく》大に相異なつてゐる。そして錦橋書上は其文|愈《いよ/\》長うして其矛盾の痕は愈|著《いちじる》しい。直温は祖父書上の矛盾の大なるものを刪《けづ》り去つたと謂ふも可なる程である。然るに京水は別に養父錦橋の文を校訂すべき材料を有せなかつたと見えて、其矛盾の所はこれに評註を加へたに過ぎない。
 
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