仮寐。乃閣筆。不脱眼鏡而瞑。就撫之。則已逝矣。」森田節斎は書を鰐水に与へて云つた。「聞之其内子小石氏及牧信侯。云晋戈所状。手政記。不脱眼鏡而逝。侍病牀。未嘗見此事。」鰐水は答へて云つた。「先師疾病。手政記。不脱眼鏡而逝。是石川君達。侍病牀所見。不可有誤。将質之君達。」
山陽が庚寅より胸疾があつて、此年壬辰六月十二日より喀血したことには、誰も異議を挾《さしはさ》むことは出来ない。是は山陽が自ら語つてゐるからである。その小野泉蔵に与ふる壬辰八月十四日の書に曰く。「小子も六月十二日より発症咳血也。初は不咳候へども、去臘西方より上候時より、疫も痢も直れども咳嗽而已のこり、烟草など喉に行当候様に存候事、此春夏に及び、依然作輟、到底見此症候。如痰塊之血五六日ほど出、漸々に収り、十五六日目又一度、七月二十五日に大発、吐赤沫候。」又山陽が最後に手を政記に下したことも争はれない。同じ書に曰く。「彼国朝政記未落成だけが残念故、それに昼夜かゝり、生前に整頓いたし置度候。」
剰す所は只「不脱眼鏡而瞑」の一条である。是は鰐水が始て言つた。節斎は小石《こいし》氏|里恵《りゑ》と百峰牧善助とを証人に立てて此事なしと云つた。鰐水は石川|君達《くんたつ》が見たと答へた。
此争の児戯に類することは勿論である。何故と云ふに、原来《ぐわんらい》此の如き語は必ずしも字の如くに解せなくても好いのである。例之《たとへ》ば「手不釈巻」の語の如きは、常に見る所である。是は書を読んで倦まざるを謂ふに過ぎない。誰も絶待に手から書巻を放たぬ事とは解せぬのである。山陽が最後に手を政記に下して、「それに昼夜かゝり、生前に整頓」しようとした以上は、「猶著眼鏡、手政記、刪潤不止、(中略、)乃閣筆、不脱眼鏡而瞑」と書するも或は妨《さまたげ》なからう。その偶《たま/\》物議を生じたのは、文が臨終の事を記するものたるが故である。
わたくしは山陽が絶息の刹那に、其面上に眼鏡を装つてゐたか否かを争ふことを欲せない。わたくしは惟《たゞ》正確なる山陽終焉の記を得むと欲する。そしてこれを得んと欲するがために、今一層当時のテモアン、オキユレエルたる里恵と石川牧の二生との観察を精査せむことを欲する。
江木森田の争には、臨終の一問題に於て、江木が最後の語を保有した。その「不脱眼鏡而瞑」は、今日に迄《いた》るまで、動すべからざるものとなつてゐる。然るに江木も森田も目撃者では無い。目撃者たる里恵若くは石川若くは牧は、果して何事をも伝へてをらぬか。是がわたくしの当《まさ》に討究すべき所である。
その二百五
江木|鰐水《がくすゐ》は頼山陽を状したが、山陽が歿した時|傍《かたはら》にあつたものでは無い。それゆゑわたくしは傍にあつたものの言《こと》を聞かむことを欲する。就中《なかんづく》わたくしの以て傾聴すべしとなすものは小石氏|里恵《りゑ》の言《こと》である。
江木森田二生の辨難の文を閲《けみ》するに、森田節斎は里恵の言《こと》に拠つて江木の文中山陽の終焉を叙する一段を駁してゐる。森田にして錯《あやま》らざる限は、里恵は山陽が眼鏡を著けて政記を刪定し、筆を閣《さしお》き、眼鏡をば脱せずして逝いたと云ふことを否認してゐたやうである。
然るに晩出の森田、わたくしの亡友思軒の文に一の錯誤がある。思軒はかう云つてゐる。「節斎の書には鰐水の不脱眼鏡而瞑を駁して、決して此事無しといへり。然れども鰐水は現に之を小石氏に聞きたりといへば、行状の言を信とせざるべからず。」鰐水は小石氏に聞いたとは云はない。石川|君達《くんたつ》に聞いたと云つたのである。里恵は原告節斎に有利なる証言をなしたのに、思軒は誤つて被告鰐水に有利なる証言をなしたものとした。
推するに是は思軒の記憶の誤、若くは筆写の誤であらう。わたくしは亡友の文疵《ぶんし》を扞《あば》くに意あるものではない。わたくしは今も猶思軒の文を愛好してゐる。わたくしは只里恵がいかに山陽の終焉を観察したかを明にせむと欲するが故に、已むことを得ずしてこれに言及したに過ぎない。
里恵は行状中「不脱眼鏡而瞑」の段を否認したらしい。しかし其|言《こと》は消極的で、しかも後人は間接に節斎の口よりこれを聞くのである。若し此に積極的言明があつて、直接に里恵に由つて発表せられてゐるとしたなら、その傾聴するに足ることは何人《なにひと》と雖も首肯すべきであらう。
然るに此の如き里恵の言明は儼存してゐる。人の珍蔵する所の文書でもなく、又僻書でもない。田能村竹田の屠赤瑣々録《とせきさゝろく》中の里恵の書牘である。
わたくしは前《さき》に里恵の山陽に嫁した年を言ふに当つて、既に一たびこれを引いた。そして今再びこれを引いて煩を憚らない。わたくしは敢て貴重なるものを平凡なるものの裏《うち
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