笑数刻。告別而帰。帰路上前丘。後面大呼火。回看慊堂先生与両三童子同戯。焼園中之草。共哄笑。」
これを読んでわたくしは石経《せきけい》山房当時の状を想像することを得た。塩谷宕陰《しほのやたういん》撰の行状に、「買山幕西羽沢村、※[#「弗+りっとう」、8巻−15−上−14]茅以家焉、所謂石経山房也」と云つてあるのが是である。
わたくしは嘗て安井小太郎さんに石経山房の址が桑原某の居となつてゐることを聞いた。そして中村秀樹さんに請うて其|詳《つまびらか》なるを知らむと欲した。中村氏の報ずる所に拠れば、其地は「下渋谷羽根沢二百四十九番地」で、現住者は海軍の医官桑原荘吉さんである。
その二百
西洋の屋《いへ》は甎石《せんせき》を以て築き起すから、縦《たと》ひ天災|兵燹《へいせん》を閲《けみ》しても、崩壊して痕跡を留めざるに至ることは無い。それゆゑ碩学鴻儒の故居には往々|銅※[#「片+旁」、第4水準2−80−16]《どうばう》を嵌《かん》してこれを標する。我国の木屋《もくをく》は一|炬《きよ》にして焚き尽され、唯空地を遺すのみである。頃日《このごろ》所々に木札を植《た》てて故跡を標示することが行はれてゐるが、松崎|慊堂《かうだう》の宅址の如きは未だ其数に入らない。
青山六丁目より電車道を東に折れて、六本木に至る道筋がある。蘭軒を葬つた長谷寺《ちやうこくじ》は此道筋の北にあつて、慊堂が石経山房の址は其南にある。長谷寺に往くには高樹町巡査派出所の角を北に入る。石経山房の址を訪ふには、其手前|雕塑家《てうそか》菊池氏の家の辺より南に入る。そして赤十字病院正門の西南方に至れば、桑原氏の標札のある邸を見出すことが出来る。
赤十字病院前を南に行つて西側に、雑貨商大久保増太郎と云ふ叟《をぢ》が住んでゐる。大久保氏は羽沢根生《はねざはねおひ》の人で、石経山房の址がいかなる変遷を閲したかを知つてゐる。松崎氏の後、文久中に佐倉藩士木村軍次郎と云ふものが、長崎から来て住んだ。隣人が「木村と云ふ人は裸馬に乗つて歩く人だ」と云つた。恐くは洋式の馬具を装つた馬に騎《の》つたのであらう。木村が去つた後には下渋谷の某寺の隠居が住んだ。其次は杉田勇右衛門と云ふもので、此に住んで土地の売買をした。杉田は薩摩の人ださうであつた。其次が今の桑原荘吉さんだと云ふ。桑原氏は明治十四五年の頃此に移り来つたのである。
わたくしは柏軒の此年天保三年三月の日記に拠つて、狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎、渋江抽斎、柏軒の三人が石経山房を訪うた事を記した。按ずるに此日記は柏軒が慊堂を見て感奮し、其感奮の情が他をして筆を把つて数日間の記を作らしめたのである。それゆゑ自強して息《や》まざらむと欲する意が楮表《ちよへう》に溢れてゐる。下に其数条を続抄する。
三月七日は慊堂を訪うた翌日である。「此日。痘科鍵之会。京先生看観世一代能。不在家。」京先生は池田|京水《けいすゐ》で、其家に痘科鍵《とうくわけん》を講ずる会があつたと見える。
「八日。余甚嗜甘旨。甘旨不去側。今不食甚嗜之甘旨。而磨琢志意。研究経籍。」
「九日。雨。山崎宗運法眼開茶宴。君侯為賓。※[#「くさかんむり/(匚<(たてぼう+「亞」の中央部分右側))」、第4水準2−86−13]庭先生為主接賓。以故休講傷寒論。大兄当直上邸。」多紀※[#「くさかんむり/(匚<(たてぼう+「亞」の中央部分右側))」、第4水準2−86−13]庭《たきさいてい》が傷寒論を講じ、柏軒が聴者《ていしや》中にあつたことが此に由つて知られる。
「十日。大兄講外台。」榛軒は外台秘要《ぐわいたいひえう》を講じた。
「十一日。就浅草狩谷先生之居。写通藝録。」通藝録《つうげいろく》は「※[#「翕+欠」、8巻−17−上−2]程瑤田易疇著、嘉慶八年自刊本」の叢書で、収むる所二十余種に至つてゐる。柏軒の写したのは何の書か。
「十二日。煩悩。不会于池田。」亦痘科鍵を聴くべき日であつたのか。
「十五日。大兄講外台。」
「十六日。晴。大兄欲伴妹拝墓。有事不得行。故小人代行。谷村景※[#「王+民」、第3水準1−87−89]随。岡西徳瑛、成田竜玄嘗有約。先小人至。帰路訪溜池筑前侯邸中伯母正宗院。不在家。」蘭軒の三週年忌である。榛軒が事に阻げられて墓に詣《いた》らなかつたので、柏軒が代つて往つた。わたくしは前《さき》に景※[#「王+民」、第3水準1−87−89]の氏が不詳だと云つたが、此日記に谷村氏としてある。然らば蘭軒門人録の「谷村敬民、狩谷縁者、大須」と同人であらう。
「十七日。祭考。渋江抽斎、森、山田、有馬等来。」
「十八日。如羽根沢慊堂先生之家。※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎先生与慊堂先生読李如圭釈宮。渋江全善、信重在側聞之。」宋の李如
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