事は文政戊寅の詩引及己卯の詩註に見えてゐる。是は上田芳一郎さんの示教に由つて覆検した。
その百六十八
此年乙酉の八月十三日上野不忍池の上《ほとり》なる静宜亭に催された例会の席上の作と、中秋の作との中間に、※[#「くさかんむり/姦」、7巻−330−下−7]斎《かんさい》詩集は「送森島敦卿還福山」の七絶一首を載せてゐる。敦卿《とんけい》の下《しも》に樸忠《ぼくちゆう》と註してある。森島樸忠、字は敦卿である。
わたくしは浜野知三郎さんに質《たゞ》して、略《ほゞ》此人の事を詳《つまびらか》にすることを得た。森島氏は樸忠五世の祖|忠上《ちゆうしやう》の時阿部正次に仕へた。忠上は延宝八年に歿した。高祖を忠久と曰ふ。元禄十七年に歿した。曾祖を忠好と曰ふ。享保八年に歿した。祖父を忠州と曰ふ。明和五年に致仕した。父を忠寛と曰ふ。寛政七年に致仕した。樸忠は忠寛の二子にして立嫡《りつてき》の命を受けた。時に寛政三年十一月二十七日であつた。以上は由緒書に拠る。
樸忠の年齢には疑がある。樸忠の孫鶴岡耕雨さんの記する所を検するに、歿日を「弘化二午歳七月十日」と云つてある。弘化二年乙巳とすべきか、弘化三年丙午とすべきかに惑ふ。姑《しばら》く丙午を正しいとする。さて歿する時樸忠は年七十一であつたと云ふ。
此前提より由緒書を看るときは、下《しも》の樸忠の履歴が成り立つ。樸忠、字は敦卿、通称は金十郎である。安永五年に生れ、寛政三年十六歳にして父忠寛の嫡子にせられ、七年に二十歳にして「跡式二百三十石広間番」を拝した。此より後樸忠は下の諸職を命ぜられた。「享保元年使番。三年兼火事場目附。文化二年大目附箱掛。五年仕置定式掛。普請掛、除銀納方掛。七年韓使来聘時公儀役人通行用掛。八年者頭席。九年宮造営掛。十年郡奉行、兼寺社奉行、兼大目附、兼収納方吟味掛、兼宮用掛、兼箱掛。十一年郡中大割吟味掛、兼町奉行。十三年免大目附。文政元年番頭。五年用人格、用人。」
樸忠は用人として文政七年七月二十七日に「江戸在番」を仰附けられ、十月五日に「当暮若殿様御叙爵に付御用掛」にせられた。若殿は寛三郎|正寧《まさやす》である。十二月廿二日「右御用掛無滞相勤候に付銀二枚御酒御吸物被下置、」同日「若殿様へ干鯛一折奉指上、」東役の任務が畢《をは》つた。そこで八年乙酉中秋前後に、蘭軒は将《まさ》に福山に還らむとする樸忠がために詩を賦したのである。
蘭軒の詩に云く。「金言為贈非吾事。彩筆壮行別有人。偏想君経榛海路。荻花楓葉月明新。」此時樸忠は正に四十歳であつた。
八月二十七日の由緒書の文に、「帰郷之御目見御意拝領物」と云つてある。樸忠は秋のうちに福山に帰つたことであらう。
福山に帰つた後、樸忠は「城番席」を勤めてゐて、天保八年十月十三日に六十二歳にして致仕し、新五郎忠同が家を継いだ。しかし忠同は十年三月廿九日に父に先《さきだ》つて歿した。鶴岡氏の記する所に従へば、樸忠は我郷《わがきやう》の大国隆正、福羽|美静《よししづ》と相識つてゐたと云ふ。
※[#「くさかんむり/姦」、7巻−332−上−8]斎詩集の此秋の詩は凡《すべ》て十一首ある。七夕一、八月十三日静宜亭集宿題巌桂、観濤二、同席上|村醸新熟《そんぢやうしんじゆく》一、中秋一、送敦卿一、以上六首の末に、「遊仙曲」一首、九月二十三日静宜亭集の詩四首がある。此四首は宿題「塞下曲」一、「貴人郊荘菊叢盛開、就偸一賞」二、席上「鳴鹿」一である。静宜亭の詩会は此年四月に始まつて九月に終つた。
その百六十九
此年文政八年の秋には、蘭軒の家に猶一|事《じ》の記念すべきものがあつた。それは吉野山の桜を園内に移し植ゑたことである。蘭軒の識る人に斎藤某と云ふものがあつた。桜は本此斎藤氏の園中の木であつた。蘭軒はそれを乞ひ得て移し植ゑたのである。事は次年に作つた長古「芳桜歌」と其小引とに載せてある。惜むらくは其移植の月日が記してない。
初め小さい桜の木の苗を吉野山から齎し帰つて、これを江戸の邸宅の園内に植ゑたのは、斎藤氏の家の旧主人である。丙戌より五十年前だと云へば、安永中の事でなくてはならない。「斎藤氏園。有一桜樹。云旧主人得寸株於芳野而所栽。五十年於茲。殆已合抱。去秋余懇切乞之。遂移園中。」是が引の云ふ所である。
五十年の星霜を閲した「合抱」の木であつたから、これを移すのは容易な事ではなかつただらう。蘭軒の懇望のいかに切なりしかは、歌に「蜀望荊州方可想、秦求趙璧亦斯情」と云ふを以て知られる。蘭軒は初め言ふことを憚つたが、遂に意を決して乞うた。「言偏思巧未開口。策已将運猶畜胸。忽把破瓶迸水勢。断然切乞意方剛。」斎藤某は蘭軒の脚疾あるを憐んでこれを許した。「主人清淡且仁慈。莞笑頷之不敢辞。徐説愛花吾似子。但吾健歩子其痿。満城
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