ものである。急病に於て殊にさうである。
 霞亭の酒を嗜んだことは、何に縁《よ》つて知つたか。わたくしは頃日《このごろ》浜野知三郎さんに就いて、霞亭の著す所の書数種を借ることを得た。霞亭渉筆は其一である。渉筆に左の二条がある。
「予性疎慢。一切之物。寡所嗜好。唯有酒癖。習以成性。欲止未能。然年歯漸長。節而飲之。亦似不甚害。要之在人。不在酒也。毎誦汪遵詩。九※[#「酉+榲のつくり」、第3水準1−92−88]松醪一曲歌。本図間放養天和。後人不識前賢意。破国亡家事甚多。深以為知言。」
「蜀志諸葛孔明戒子曰。夫酒之設。合礼致情。適体帰性。礼終而退。此和之至。主意未殫。賓有余豪。可以至酔。無致於乱。此言可謂唯酒無量不及乱好註脚。」
 わたくしは酒が必ず霞亭に祟をなしたとは云はない。しかし霞亭の酒を説くを見るに、自ら嘲る中に自ら解する意を含んでゐる。わたくしは此を除いては、霞亭の健康を害すべき所以のものを知らぬから、これに言及した。
 霞亭は歿して、跡に未亡人敬が遺つた。子は山陽が「生二女、皆夭」と云つてゐるから、恐くは既に亡かつただらう。霞亭の父適斎道有は、霞亭の弟惟長をして家を嗣がしめ、霞亭に分家せしめてゐたから、敬には仕ふべき舅姑《きうこ》は無い。的屋には敬の帰るべき家は無い。山陽は「考以次子立敬承家」と書してゐる。立敬は惟長である。
 そこで敬は神辺《かんなべ》の里方へ帰ることとなつた。敬は江戸を立つて東海道にさし掛かつた。然るに江戸より神辺に至る途中に、茶山の書牘に云ふ如く、二三の厄難があつた。
 敬は箱根の関に半日余抑留せられた。それは髪の結振《ゆひぶり》が書付と符せぬが故であつた。或は後家らしい髪が途上却つて人の目に附くを憚つて、常体《つねてい》に改めてゐたのであらうか。関の役人は金三歩を受けて、纔《わづか》に敬を放つて去らしめた。当時の吏の収賄である。わたくしは此汚吏の長官の誰なるかを検して見た。此年の役人武鑑に箱根の関所番として載せてあるのは、相模国小田原の城主大久保加賀守|忠真《たゞざね》であつた。或はおもふに当時の吏は例として此の如き金を受け、その収賄たるに心付かずにゐたのではなからうか。

     その百三十八

 北条霞亭の未亡人敬は僅に箱根の関を踰《こ》ゆることを許されて、池鯉鮒《ちりふ》の駅まで来ると、又一の障礙に遭つた。それは江戸から供をして来た足軽が重病を発したのである。証候《しようこう》は喀血若くは吐血であつた。敬の一行は医を延《ひ》いて治を求め、留宿一日、費金三両で此難をも脱することを得た。
 敬等は大坂に著いた。菅茶山は神辺にあつてこれを聞いた。そして書を裁して蘭軒に報じたのである。茶山は敬等が此年文政六年十一月二十四日に神辺に帰り著くことを期してゐた。
 江戸には未亡人敬の帰り去つた後、猶|亡《ばう》霞亭のために処理すべき事があつたと見える。茶山は蘭軒に、「北条事に付これはかくせよ、かれはいかがせよと被仰下たく候」と委嘱してゐる。霞亭の葬られた寺の事、北条氏の継嗣の事等であつただらう。巣鴨の真性寺に、頼山陽の銘を刻した墓碣《ぼけつ》の立てられたのは、此より後九年であつた。浜野知三郎さんの言《こと》に拠るに、「北条子譲墓碣銘」は山陽の作つた最後の金石文であらうと云ふことである。霞亭の家は養子|退《たい》が襲いだ。山陽は「河村氏子退為嗣、即進之」と云ひ、「其子進之寓昌平学」と云つてゐる。所謂河村氏は嘗て文部省に仕へた河村|重固《しげかた》と云ふ人の家で、重固の女《ぢよ》が今の帝国劇場の女優河村菊枝ださうである。
 霞亭の遺事は他日浜野氏が編述し、併て其遺稿をも刊行する筈ださうである。わたくしは上《かみ》に云つた如く、浜野氏に就いて既刊の霞亭の書二三種を借り得たから、読過の間にわたくしの目に留まつた事どもを此に插記しようとおもふ。人若しその道聴途説《だうていとせつ》の陋《ろう》を咎むることなくば幸である。
 山陽は霞亭の祖先を説いて、「其先出於早雲氏」と云つた。霞亭も亦自ら其家系を語つてゐる。渉筆に云く。「昔吾家宗瑞入道。嘗召一講師読七書。首聴三略主将之法務攬英雄之心句。断然曰。吾已領略。其他不欲聞之。英豪之気象。千載如生。而斯語也。実名言也。為将帥者不可不服膺。」軼事《いつじ》は今人の皆知る所である。わたくしの此に引いたのは、その霞亭の筆に上つたためである。
 次に山陽は「後仕内藤侯、侯国除」と云つてゐる。そして「志摩的屋人」の句は先祖を説くに先だつて下《くだ》してある。文が頗る解し難い。所謂「内藤侯」の何人《なにひと》なるかは、稍《やゝ》史に通ずるものと雖、容易に知ることが出来ぬであらう。わたくしは山陽が強て人の解することを求めなかつたのではないかと疑ふ。
 渉筆に西村|維祺《ゐき》の文が載せてある
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