かつなん》が一たびこれが伝を立てたことがあつた。只彼人名辞書の記載は海保漁村《かいほぎよそん》の墓誌の外に出でず、羯南の文も亦経籍訪古志の序跋を参酌したに過ぎぬに、わたくしは嗣子保さんの手から新に材料を得た。これに反して蘭軒の曾孫|徳《めぐむ》さんと、其宗家の当主信平さんとの手より得べき主なる材料は、和田さんが既に用ゐ尽してゐる。就中《なかんづく》徳さんの輯録した所の材料には、「右蘭軒略伝一部帝国図書館依嘱に応じ謹写し納む。大正四年四月八日」と云ふ奥書がある。わたくしは和田さんが材を此納本に取つたことを疑はない。わたくしの新に伊沢氏に就いて、求め得べき材料は、此納本に漏れた選屑《えりくづ》に過ぎない。縦《よ》しや其選屑の中には、大正五年に八十二歳の齢を重ねて健存せる蘭軒の孫女《まごむすめ》おそのさんの談片の如き、金粉玉屑《きんふんぎよくせつ》があるにしても。
蘭軒を伝ふることが抽斎を伝ふるより難いには、猶一の軽視すべからざる理由がある。それは渋江氏には「泰平千代鑑」と題するクロオニツクがあつて、帝室、幕府、津軽氏、渋江氏の四欄を分つた年表を形づくつてゐるのに、伊沢氏には編年の記載が少いと云ふ一事である。強ひて此欠陥を補ふべき材料を求むれば、蘭軒には文化七年二月より文政九年三月に至る「勤向《つとめむき》覚書」があり、其嗣子|榛軒《しんけん》には嘉永五年十月二十一日より十一月十九日に至る終焉の記があるのみである。独り榛軒の養嗣子|棠軒《たうけん》は、嘉永五年十一月四日より明治四年四月十一日に至る稍詳密なる「棠軒公私略」を遺し、僅に中間明治元年三月中旬より二年六月上旬に至る落丁があるに過ぎぬが、其文には取つて蘭軒榛軒二代の事跡を補ふべきものが殆無い。
わたくしは自己の態度を極めたいと云つた。しかし熟《つく/″\》これを思へば、自己の態度を極めることが不可能ではないかと疑ふ。わたくしは少くもこれだけの事を自認する。若しわたくしが年月に繋《か》くるに事実を以てしようとしたならば、わたくしの稿本は空白の多きに堪へぬであらう。徳さんの作つた蘭軒略伝が既に編年の行状では無い。その蘭軒前後に亘つた「歴世略伝」も亦同じである。徳さんの記載に本づいたらしい和田さんの略伝も亦編年では無い。藝備偉人伝は、蘭軒を載せた下巻がわたくしの手許に無いが、同じ著者の「頼山陽」に引いた文を見れば、亦復《またまた》編年では無ささうである。おそのさんの談話の如きは、固《もと》より年月日を詳《つまびらか》にすべきものに乏しい。わたくしは奈何《いかに》して編年の記述をなすべきかを知らない。
その三
わたくしはかう云ふ態度に出づるより外無いと思ふ。先づ根本材料は伊沢|徳《めぐむ》さんの蘭軒略伝乃至歴世略伝に拠るとする。これは已むことを得ない。和田さんと同じ源を酌まなくてはならない。しかし其材料の扱方に於て、素人歴史家たるわたくしは我儘勝手な道を行くことゝする。路に迷つても好い。若し進退|維《こ》れ谷《きは》まつたら、わたくしはそこに筆を棄てよう。所謂《いはゆる》行当ばつたりである。これを無態度の態度と謂ふ。
無態度の態度は、傍《かたはら》より看れば其道が険悪でもあり危殆《きたい》でもあらう。しかし素人歴史家は楽天家である。意に任せて縦に行き横に走る間に、いつか豁然として道が開けて、予期せざる広大なるペルスペクチイウが得られようかと、わたくしは想像する。そこでわたくしは蘇子の語を借り来つて、自ら前途を祝福する。曰く水到りて渠成ると。
系譜を按ずるに、伊沢氏に四家がある。其一は旗本伊沢である。わたくしは姑《しばら》く「総宗家」と名づける。其二は総宗家四世|正久《まさひさ》の庶子にして蘭軒の高祖父たる有信《ありのぶ》の立てた家で、今麻布鳥居坂町の信平さんが当主になつてゐる。徳さんの謂ふ「宗家」である。其三は宗家四世|信階《のぶしな》が一旦宗家を継いだ後に分立したもので、蘭軒|信恬《のぶさだ》は此信階の子である。徳さんの謂ふ「分家」で、今牛込市が谷富久町に住んでゐる徳さんが其当主である。其四は蘭軒の子柏軒|信道《のぶみち》が分立した家で、徳さんの謂ふ「又分家」である。当主は赤坂氷川町の清水夏雲さん方に寓してゐる信治《のぶはる》さんである。
総宗家の系図には、わたくしは手を触れようとはしない。其初世吉兵衛正重は遠く新羅三郎義光より出でてゐる。此に徳さんの補修を経た有形《ありかた》の儘に、単に歴代の名を数ふれば、義光より義清、清光、信義、信光、信政、信時、時綱、信家、信武、信成、信春、信満、信重、信守、信昌、信綱、信虎を経て晴信に至る。晴信は機山信玄である。晴信より信繁、信綱、信実、信俊、信雄、信忠を経て正重に至る。正重を旗本伊沢の初世とする。要するに旗本伊沢
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