。天下猶非一人有。売過何惜小園林。担頭挑得図書去。此是凡夫執著心。」蘭軒のわたましが主に書籍のわたましであつたことは想像するに余がある。「同前呈後主人。構得軒窓雖不優。却宜酔月詠花遊。竟来貧至兌銭去。在後主人莫効尤。」わたくしは此首に於て蘭軒の善謔を見る。偶《たま/\》来つて蘭軒の故宅を買ふものが、争《いか》でか蘭軒の徳風に式《のつと》ることを得よう。
その七十七
「君恩優渥満家財。況賜新居爽※[#「土へん+豈」、7巻−158−上−7]開。公宴不陪朝不坐。沈痾却作偸間媒。」これは蘭軒が「移居於丸山邸中」の詩である。所謂《いはゆる》丸山邸は即ち今の本郷西片町十番地の阿部邸である。蘭軒の一家は一たび此に移されてより、文久二年三月に至るまで此邸内に居つた。
「公宴不陪朝不坐」の句は大いに意義がある。阿部侯が宴を設けて群臣を召しても、独り蘭軒は趨《おもむ》くことを要せなかつた。わたくしはこれを読んでビスマルクの事を憶ひ起す。渠《かれ》は一切の燕席に列せざることを得た。わたくしは彼国に居つたが、いかなる公会に※[#「くさかんむり/(さんずい+位)」、第3水準1−91−13]《のぞ》んでも、鉄血宰相の面《おもて》を見ることを得なかつた。これを見むと欲すれば、議院に往くより外無かつたのである。渠は此の如くにして※[#「燮」の「又」に代えて「火」、第3水準1−87−67]理《せふり》の任を全うした。蘭軒は同一の自由を允《ゆる》されてゐて、此に由つて校讐の業に専《もつぱら》にした。人は或は此|言《こと》を聞いて、比擬《ひぎ》の当らざるを嗤《わら》ふであらう。しかし新邦の興隆を謀《はか》るのも人間の一事業である。古典の保存を謀るのも亦人間の一事業である。ホオヘンツオルレルン家の名相に同情するも、阿部家の躄儒《へきじゆ》に同情するも、固よりわたくしの自由である。
「朝不坐」も亦阿部侯の蘭軒に与へた特典である。初め蘭軒は病後に館に上つた時、玄関から匍匐して進んだ。既にして輦《てぐるま》に乗ることを許された。後には蘭軒の轎《かご》が玄関に到ると、侍数人が轎の前に集り、円い座布団の上に胡坐《こざ》してゐる蘭軒を、布団籠《ふとんごめ》に手舁《てがき》にして君前に進み、そこに安置した。此の如くにして蘭軒は或は侯の病を診し、或は侯のために書を講じた。蘭軒は平生より褌《こん》を著くることを嫌つた。そして久しく侯の前にあつて、時に衣の鬆開《そうかい》したのを暁《さと》らずにゐた。侯は特に一種の蔽膝《へいしつ》を裁せしめて与へたさうである。座布団と蔽膝との事は曾能子《そのこ》刀自の語る所に従つて記す。
蘭軒は阿部邸に徙《うつ》るために、長屋を借ることを願つた。しかし阿部家では所謂《いはゆる》石取《こくどり》の臣を真の長屋には居かなかつた。此年に伊沢氏の移つた家も儼乎たる一|構《かまへ》をなしてゐたらしい。伊沢分家の人々は後に文久中に至るまで住んだ家が即ち当時の家だと云つてゐるが、勤向覚書を閲《けみ》するに、文化十四年に蘭軒は同邸内の他の家に移つた。高木氏の故宅と云ふのがそれである。今分家に平面図を蔵してゐる家屋は、恐くは彼高木氏の故宅であらう。平面図の事は猶後に記さうとおもふ。兎に角丸山邸内に於ける初の居所は、二年後に徙《うつ》つた後の居所に比すれば、幾分か狭隘であつたのだらう。蘭軒の高木氏の故宅に移つたのは、特に請うて移つたのである。
菅茶山は此年文化十二年二月に江戸を発して、三月の末若くは四月の初に神辺に帰つた。途中で大坂から蘭軒に書を寄せたが、其書は佚亡してしまつて、只大井川其他の歌を記した紙片が遺つてゐる。次で茶山は秋の半に至るまで消息を絶つてゐた。
大坂より送つた書には、江戸を発して伊勢に抵《いた》るまでの旅況が細叙してあつた筈である。茶山は秋に※[#「二点しんにょう+台」、第3水準1−92−53]《いた》つて又筆を把つた時、最早伊勢より備後に至る間の旅況を叙することの煩はしきに堪へなかつた。そこで旅物語を廃めてしまつた。此間の事情は八月二日に茶山の蘭軒に与へた書に就いて悉《つく》すことが出来る。これも亦|饗庭篁村《あへばくわうそん》さんの所蔵である。
その七十八
茶山が此年文化十二年秋の半に蘭軒に与へた書はかうである。
「大坂より一書いせ迄のひざくりげ申上候。相達可申候。其後御病気いかが、入湯いかが、御案じ申候。物かくに御難義ならば、卿雲見え候節代筆御たのみ御容子御申こし可被下候。小山にてもよし。扨帰後早速に何か可申上候処、私も病気こゝかしこあしくなり、漸《やうやく》此比把筆出来候仕合、延引御断も無御坐候。」
「事ふり候へば道中はいせ限にてやめ可申候。帰後はをかしき咄もきかず、日々東望いたし、あはれ、江戸が備中あたりに
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